日本のバレエ界もだんだんと変化してきている。バレエダンサーの意識が変ってきた。クラシック・バレエだけを踊るのではなく、コンテンポラリー・ダンスを積極的に踊ることはもはや今日のダンサーの常識である。アーティストとして意欲的な活動をすることは、たいへん素晴らしいことである。しかし一方で、クラシック・バレエにはなにものにも換えることのできない「美」があることも忘れないでいただきたいとも思う。最近は、時折、そんな気持ちになります。
●熊川版『白鳥の湖』演出とキャスティングの楽しみ
2003年に初演されたK バレエ カンパニーの熊川版『白鳥の湖』が再演された。
初演の際には、ヨランダ・ソナベンド/レズリー・トラヴァースの斬新な舞台美術と衣裳、近年では珍しいオディットとオディールを別々のバレリーナが踊る演出が話題となった。
2年ぶりの再演となった05年ヴァージョンは、3幕から4幕のドラマティックな展開を明確にしている。
3幕では、通常デヴェルテスマンを挿入することが多いのだが、熊川版は初演でも、王妃に花嫁の選択を迫られ困惑したジークフリードに考える時間を与えるためにナポリが踊られる。
また、ロットバルトとオディールの登場とともに、スペインの踊りが踊られる。
これらは、愛するオデットが花嫁を決めなければならない彼のためにこの場に来てくれるのではないか、と期待して門まで見に行ったりしていたジークフリードの意識の中の幻想の一景として描かれている。
単に宴を華やかにするためだけの装飾的な踊りではなく、ジークフリードの意識の流れの中に位置付けられ、ドラマとして意味を持った踊りである。
3幕と4幕の幕間は休憩をとるこが多いのだが、熊川版ではポーズとなり、素敵な間奏曲が演奏され効果を上げた。そして4幕は、初演版とは演出を変えた。
ジークフリードを欺いたロットバルトとオディールは湖畔に戻り、傷ついたオデットをさらに攻撃する。
オディールたちを追ってきたジークフリートは、彼らに騙されて誓いを破ったことをオデットに許しを乞う。しかしオデットはもはや死を選ぶしかない。
ジークフリードもオデットの後を追って湖に身を投げる。その二人の絶対的な愛に力によって、ロットバルトの魔力も破滅する。そして彼方に、天国で結ばれたオデットとジークフリードの姿が見える。
今、初演版との詳細な比較はできないが、大筋はそのようになったと思われる。
初日は、オデット/ヴィヴィアナ・デュランテ、ジークフリード/熊川哲也、オディール/荒井祐子、ロットバルト/スチュアート・キャシディというキャストであった。
デュランテのオデットは、オディールを踊る負担がないからだろうか、抑えた表現だが集中した踊りで、時折、情熱を音楽に載せて吐露した。
そしてラストシーンの悲劇性を高く美しいものとすることに成功した。荒井祐子のオディールは、3幕の踊りとドラマのクライマックスを、素晴らしいフェッテに集約して見せた。
オディールという女性の、あるいはすべて女性の中に潜むオディール的なものをダンスによって表現したのである。
熊川のジークフリードは、1幕から終始舞台全体にじつに細かな演技をして休むことがない。『白鳥の湖』がひとつの世界を構成していたとするならば、世界を支える男であった。
主役のジークフリードとして舞台を生きることが、彼の『白鳥の湖』の新しいヴァージョンを生み出す原動力になったはずである。
1幕の青春の憂愁を帯びたソロ、2幕のオデットとの愛のアダージョから、3幕のオディール、ロットバルトとの疑惑と歓喜の渾然とした踊り、4幕の悔恨と愛の昇華まで、たいへん気持ちのこもった舞台であった。
キャシディのロットバルトは、ジークフリードと正確に対峙し、ドラマに明解な筋を通した。
特に、2幕のジークフリードにオデットを渡すまいとするシーンは、3人のロイヤル・バレエの元プリンシパルが入り乱れて踊り、迫力満点だった。
家庭教師のトム・サプスフォードは、ジークフリードの気持ちを細大漏らさず受け止めた。1幕の余興の踊りには充分に楽しませてもらった。
ベンノのアルベルト・モンテッソは、1幕、2幕、3幕のオープニングをそつなくリードするという地味な大役を見事こなしていた。
この二人は、熊川版の05ヴァージョンにはなくてはならない貴重なバイプレイヤーである。
1幕のパ・ド・トロワはこの日は、長田佳世、康村和恵、カルロス・マーティン・ペレズが踊った。
特に、長田と康村はヴァリエーションを踊って見事に実力を発揮し、この舞台全体を音楽にノセて雰囲気を大いに盛り上げた。
全体にカナリア色の衣裳の中で、黒のベストと髪飾りに付けた赤い小さな石がアクセントとなり、アールヌーヴォー風のアーチに着けられた大輪の花の色とシンクロして、二人はとても可愛らしかった。(5月19日、府中の森芸術劇場)
康村和恵のオデット、デュランテのオディール、熊川のジークフリードも見応えのあるキャストだった。
康村のオデットは、細いプロポーションを生かした歯切れのいい動きでシャープな踊り。特に2幕では美しいラインを描いていた。
コール・ドもよく調っていた。デュランテのオディールは、はっきりした表現でジークフリードに迫り、ついには陥落させるリアルな演技だった。
ほかには、パ・ド・トロワとナポリを踊った荒井祐子が印象的だった。(5月21日、神奈川県民ホール)
ウィーン国立歌劇場バレエのプリンシパルとしてゲスト出演し、日本で初めて全幕を踊った中村祥子のオデット、キャシディのジークフリード、長田佳世のオディール、ペレズのロットバルトというキャストも観た。
中村のオデットは、日本人離れしたプロポーションと堂々として颯爽とした踊り。
この日が最初の舞台ということで少し力が入っていたこもしれないが、見事な白鳥だった。キャシディのジークフリードは抑え気味の演技。余裕をみせ、無難に踊った。長田佳世のディールは安定感のある踊り。
柔らかい手の表情が台詞のように語りかける。中村/オデットと長田/オディールの組み合せは、なかなか好印象を残す素敵なパラレル・ワールドだった。(5月28日、ゆうぽうと簡易保険ホール)
康村和恵のオデット、中村祥子のオディール、芳賀望のジークフリードも興味深いキャスティングだった。
康村はほんとうに踊りの表情に悲しみを漂よわすのが上手い。芳賀のジークフリードは踊りは伸びやかで見応えがある。
ただ演技はもう一歩がんばってもらいたい。ゆったりと肩の力の抜けた康村のオデットがリードするかのように舞台が進行していた。中村はオディールでも見せた。
しっかりとメリハリの利いた小気味の良い踊りである。ほかには、2幕の長田佳世と松岡梨絵の二羽の白鳥が良かった。(5月29日、ゆうぽうと簡易保険ホール)
●アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター10回目の来日公演
アメリカの文化を代表するモダンダンスのグループ、アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターが、6年ぶり10回目の来日公演を行なった。
周知のように1989年にエイリーが没してから、芸術監督のジュディス・ジャミソンと監督補の日本人、茶谷正純が協力してカンパニーの運営にあたっている。
今回の公演はS, A, Bのプログラムだった。 Sプロでは、まず、ジャミソンとレニー・ハリス、ロバート・バトルの3人の振付家がコラボレーションした新作『ラヴ・ストーリーズ』。
スティーヴィー・ワンダー他の曲を使い、ヒップ・ホップやストリート・ダンスなどの動きを採り入れ、アフロ・アメリカン文化の新しいムーヴメントを求めるダンスである。
心に沁み入るような悠久のヒューマニズムを謳ったステージだった。
この『ラヴ・ストーリーズ』の振付にも参加している、パーソンズ・ダンス・カンパニー出身のロバート・バトルの『ジュバ』も興味深かった。左右にスリットの入った青いトップ。
腰を紐で軽く結んだ一人の女性ダンサーと三人の男性ダンサーが、パワフルなサウンドで細かく激しいリズム感が溢れる動きを展開する。
音楽のエネルギーを身体にキープして、リズムの中に解放していく。人間の共生を確かめ合い、やがてはトランス状態に導かれていくかのようなダンスだった。 |
『ラヴ・ストーリーズ』 |
デヴィッド・パーソンズの『コート』は、たいへん人気のある作品。モダンダンスの作品で、これほど様々なカンパニーで上演されるものないだろう。 舞台を真っ暗にして、ダンサーがジャンプした瞬間にストロボを炊くと残像によって、ダンサーが宙空を悠然と飛んでいるように見える。
一種のトリックを使った小品だが、パーソンズはこれを武道家が空を飛んでいるような、ミステリアスな雰囲気の舞台として創った。
これが功を奏したのか、私は4回ほど観ているが、どこの会場でも喝采で観客にたいへん喜こばれている。クリフトン・ブラウンが豹のように軽やかな身のこなしで踊った。
『リベレーションズ』 |
『リべレーションズ』はこれはもう言うまでもない、エイリーのカンパニーというより、アメリカのダンスを代表する傑作である。
「悲しみの巡礼」「私を河につれて行って」「さあ、仲間たちよ、動け」などがアメリカ民謡とともに、エイリー独特の羽を広げた鳥の舞い降りるようなポーズ、
夢の中に浮かんだような白いパラソル動きなどが踊られ、素晴らしい美しい空間が舞台に描き出された。
いつものことながら、エイリーのカンパニーのダンサーたちの想像を越えるような、輝かしいエネルギーに満ちた身体には、ただただ感歎するばかりである。
(5月25日、東京国際フォーラムC) |
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