まだ子どもだったライザとルイジが出会ったのはハリウッドだった。当時ルイジは、彼女の父の映画監督ヴィンセント・ミネリと母のジュディ・ガーランドと共に仕事をしていた。ライザは10代の半ば、キャリアを積むためにニューヨークに拠点を移し、ルイジのジャズ・スクールに通うようになった。以来ライザは、ルイジのことを「パパ」と親しみを込めて呼んでいる。
ライザは脳炎の影響により臨死を経験したが、股関節や膝の手術を受けた後、ルイジの指導の下にリハビリを行って、復活をすることができた。二人はダンスの師弟関係だけではなく、癒しの力による強い絆でも結ばれているのである。
ルイジやライザは、MGM映画の「ミュージカルの黄金期 "Golden Era of Musicals"」に繋がっている。当時、多くの映画会社は悲しみを楽しみにするような抜け目のない映画を製作した。中でもMGM社はミュージカル映画の先駆的存在だった。洗練された映像の世界で、唯一の女性プロデューサーでアレンジャーだったのがMGMのケイ・トンプソンである。トンプソンは人気のアレンジャーだっただけでなく、ラジオ番組のスター、舞台女優、そして自らが経営するナイトクラブのエンタティナー、ライザ・ミネリの後見人だったし、ライザに基づいた
"Eloise at the Plaza" の作者でもあった。また、ケイは映画『ファニー・フェイス』に主演し、フレッド・アスティアやオードリー・ヘップパーンとも共演している。この映画の有名なナンバー、「ボンジュール・パリ」を憶えている方も多いのではないだろうか。
ライザのコンサートで私が助手を務めたパートは、1940年代から50年代にかけて、ケイ自身のショー用に手がけた楽曲とMGMが映画で使用していた6曲を含んでいた。男性歌手4名による曲は「ザ・ウィリアム・ブラザーズ」として知られるようになり、ライザはこのプロジェクトの発起人としても名声を得た。後に編曲はビリー・ストリッチによって支えられた。(ウィリアム・ブラザーズの一番若かったアンディは、「ムーン・リバー」や「ボーン・フリー」の成功でバラードの王として有名になった)
ライザは、ウィリアム・ブラザーズにも匹敵する4名の男性歌手と奇跡的で官能的なダンスを発表した。以来、ルイジとライザの共同製作は続いている。ライザは4名の男性歌手、クラーク・ソレル、ジョニー・ロジャース、コーテス・アレクサンダー、ジム・カルーソを<マイ・ボーイズ>と呼んでいる。彼らはプロの歌手だが、それまではダンスのトレーニング受けたことがなく、ルイジとライザの舞台用に1ヶ月のリハーサルでトレーニングを積んだ。また、ルイース・クイックはボブ・フォッシーのダンサーだったが、後にアシスタントを務め、現在はライザの舞台製作の助手。ルイースと私は「ダンス・キャプティン」という役割で関わったのである。