(関口紘一)

『ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏』

ドキュメンタリー映画『ボリショイ・バビロン』を観た。
私は、旧ソ連の末期ペレストロイカの時代に、改修以前のボリショイ劇場の舞台裏を何回か回った。しかし、何回巡っても下手側と上手側に旧式のエレベーターがあること以外、その構造を思い浮かべることはできなかった。じつに複雑にで暗かったし、最上位のバレエダンサーに与えられる楽屋はここで、食道は何階で、本番の舞台と全く同じ大きさのリハーサル用の舞台がどこにあって・・・と説明されるのだが皆目見当がつかなかった。しかし、その暗がりの中をおぼつかぬ足取りで歩いていると、突如、目の前に肌も露な絶世の美女が姿を現し狭い通路を触れ合わんばかりにすれ違う、胸のドキドキが止まるヒマがなかった。そして、長年ボリショイ・バレエを仕切っていた絶頂期のグレゴローヴィチにわずかな時間を割いてもらって、彼の首席バレエ・マスター室でインタビューしたことがある。当時はテープレコーダーとフィルムカメラだったが、職業柄手慣れているはずのこのアナログ機器の操作が、のし掛かる得体の知れないプレッシャーのためにスムーズにいかず、思わず脱走したくなったのを覚えている。

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6頭だての馬車を操るアポロンの像を戴くアプローチを通って、壮大なプロセニアムと向き合う。ボリショイ劇場は、ユーラシア大陸の中央を支配した古代モスクワの伝統と、東ローマ帝国の継承を自任するキリスト教文化が混在した誇り高き巨人ロシアの魂が棲む魔宮だ。そして、ここでは3,000人もの芸術家たちが競い合うようにして、オペラ、バレエの舞台を創っている。
よくボリショイとマリインスキーを較べてそれぞれの特徴を語ったつもりになっている文章と出会うが、それでは皮相を述べているに過ぎず、舞台芸術の奥に迫ることはできない。

2013年に起きたボリショイ・バレエの芸術監督セルゲイ・フィーリンが、覆面の男に硫酸を浴びせられたという衝撃的事件も、不謹慎ではあるが、魔宮ボリショイ劇場であれば起こりうることだったかも知れない、とすら思われた。その後、ダンサーのドミトリチェンコが犯人と目されて逮捕された、と聞いて、これで諸々は治まっていくのかと思っていた。
ところがもっと驚いたのは、魔宮ボリショイ劇場に史上初めてカメラが入った、と聞いたときだ。鉄のカーテンからグリゴローヴィチの独裁体制と、ロシアを代表する劇場には長らく厳しい規制が敷かれていた。まさかボリショイ劇場で、危機に陥った英国ロイヤル・オペラ・ハウスを描いたようなドキュメンタリー映画が撮影されるとは、夢にも予想していなかった。そのドキュメンタリー映画が間もなく、ロードショーされる、という。時が移れば時代も変わるわけである。

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ボリショイ劇場に初めて本格的ドキュメンタリー製作のためのカメラが入ったのは、衝撃の事件から嫉妬やセックススキャンダルが渦巻く中、ロシア政府が新総裁にウラジーミル・ウーリンを起用し、徐徐に劇場の秩序の回復に務めた頃からである。
メドヴェージェフ首相からプリンシパル・ダンサーのアレクサンドロワやアラシュ、ザハーロワほかのコメントとともに動揺を隠せないかのようなクラスやリハーサル、『白鳥の湖』『ラ・バヤデール』『スパルタクス』『イワン雷帝』『ロスト・イリュージョン』『アパルトマン』など舞台などがつぎつぎと描かれる。そして、回復したが一方の目の視力を失ったフィーリンが復帰する。じつはフィーリンはボリショイ・バレエの芸術監督に就任する以前、モスクワ音楽劇場で当時この劇場の総裁だったウーリンの下で仕事をしていた。その関係は、うまくいっていた、とは到底言えないだけに、さらなる波乱さえ予感させる。

底知れぬスケールの大きなボリショイ劇場に、紀元前の王国バビロンを思い浮かべて長編ドキュメンタリー映画を完成したのは、ニック・リード、プロデューサーはアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を2度受賞しているサイモン・チン、製作はやはり、英国BBCだった。

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2015年9月19日(土)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開
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配 給:東北新社
http://www.bolshoi-babylon.jp/

監督・撮影:ニック・リード/製作・共同監督:マーク・フランチェッティ
製作総指揮:サイモン・チン(アカデミー賞受賞『マン・オン・ワイヤー』『シュガーマン奇跡に愛された男』)、マクシーム・ポズドローフキン
出 演:マリーヤ・アレクサンドロワ、アナスタシア・メーシコワ、マリーヤ・アラシュ、セルゲイ・フィーリン、ウラジーミル・ウーリン、ボリス・アキーモフほか