牧阿佐美バレエ団『くるみ割り人形』
牧阿佐美バレエ団が創立50周年記念公演の掉尾を飾って、総監督の三谷恭三の演出・改訂振付(プティパ、イワノフ版による)の『くるみ割り人形』を上演した。三谷版は2001年に初演されている。
金平糖の精、雪の女王、王子がトリプルキャストだったが、私が観た日は、笠井裕子、吉岡まな美、京當侑一籠。クララは西櫻子、ドロッセルマイヤーには小嶋直也が扮していた。
京當はくっきりとバランスのとれた身体で、役に似合い王子にふさわしい舞台姿だった。清楚な佇まいで、無駄な動きがまったくなく優しくクララを導き、2幕のグラン・パ・ド・ドゥも舞台を圧倒するような踊りを見せた。この作品に後味のよい印象を残した。小嶋のドロッセルマイヤーには大いに期待したのだが、あまり記憶に残る演技は見付けられなかった。
1幕はシュタールバウム家の客間も雪の国も素晴らしい装置で、楽しさが客席にまで直接伝わってくる。夜の森で踊られる雪の国シーンは、照明が鮮やかに煌めく世界を浮かび上がらせて、クリスマスの雰囲気がたっぷりと醸し出されていた。
ただ、2幕の金平糖の精は、大冒険を繰り広げてお菓子の国に辿り着いた王子とクララをもっと大仰に歓迎してあげてほしい、と思った。また各国やお菓子をイメージしたデヴェルティスマンは、それぞれ可愛らしいのだから、もっと観客にアピールする気持ちを前に出して踊ってほしい、とも感じた。
ダンスを見守る小さなコックたちが、なんとも言えず可愛らしい。『くるみ割り人形』にふさわしい、素敵なアイディアだと思う。
(12月16日昼、ゆうぽうと簡易保険ホール)
スターダンサーズ・バレエ団のフォーサイス、チューダー、バランシン
スターダンサーズ・バレエ団がトリプルビル公演を行い、ウィリアム・ファーサイスの『アプロクシメイト・ソナタ』(フォーサイス、ヴィレムス)、アントニー・チューダーの『リラの薗』(チューダー、ショーソン)、ジョージ・バランシンの『スコッチ・シンフォニー』(バランシン、メンデルスゾーン)の三作品を上演した。
フォーサイスの『アプロクシメイト・ソナタ』は、1996年にフランクフルト・バレエ団で初演されたもので、日本初演となる。
舞台は背景に半開き状態の幕が見え、その前でダンスのリハーサルとおぼしき光景が演じられる。まず、男性ダンサーが舞台の奥から手前に演技しながら歩いてくる。舞台監督からそのダンサーへのインカムがオンになっていて、指示の声が聞える。トリッキーの「パンプキン」が流れ、交代でリハーサルをするダンサーが登場する。音楽はピアノのソロに変わるが、外部から(例えば他のスタジオとか)聴こえてくる音らしく、リハーサルをするダンサーは無頓着。ポーズが決まるとそのまま次のダンサーが受け継いだり、あるいはさっさと退場したりする。
パ・ド・ドゥのリハーサル風景----幕の内側----を、ソナタの形式に整えて作品としたものと思われる。劇場のプロセニアムの中で行われるダンスを解体して、再構成しようという意図をもった作品である。アプロクシメイトとは、アルゴリズムなどに用いられる「近似の」という意で使われているのだろう。
『アプロクシメイト・ソナタ』
小山恵美、新田知洋 |
『アプロクシメイト・ソナタ』
福原昌美、大野大輔 |
チューダーの『リラの薗』は、1936年にバレエ・ランバートに振付けられた作品だが、昨夜ゲネプロを終えたばかり、といっても不自然ではない。とても今から70年も前に創られた作品とは思えないほど、男女の関係の襞をヴィヴィッドに描いている。
1900年代のエドワード朝時代の、強いられた結婚を前夜に控えた女性と彼女を密かに愛する男性と、夫となる男性の愛人が交錯するお別れパーティが舞台である。リラの花が咲き乱れ、月光が射し込む中庭で登場人物それぞれが胸に抱いた想いを、様々な方法で相手の胸に刻みこもうとするが、思うようには進展しない。そうした心理が織りなす綾を月明りが冷ややかに映し出すのである。
愛を求める人たちの心理をいかに細やかに、絵解き風にならずに緊張感を失わずに展開できるか、それがこの作品の命と言ってもいいのではないだろうか。
最後はバランシンの『スコッチ・シンフォニー』が踊られた。トリプルビルとしては、優れた高度な作品によるプログラミングだった。
(12月2日、ゆうぽうと簡易保険ホール)
『リラの園』
小池知子、福原大介 |
『スコッチ・シンフォニー』
林ゆりえ、新村純一 |
勅使川原三郎『ガラスノ牙』 新国立劇場公演
舞台手前と中央に長方形のガラスの破片をびっしりと敷き詰めたスペースが、下から照明を当てられて、月に照らされたようににぶく光っている。その光は無限に乱反射して、暗黒の天井に、光りを刷毛で佩いた星雲のような模様が浮かんでいる。現実には目にすることのない、宇宙空間のいずこか、あるいは物質を構成する原子のナノ空間をのぞいたような光景である。
手前のガラスの破片を敷き詰めたスペースを、勅使川原がゆっくりと渡って新作『ガラスの牙』は始まった。
巨大な物体の崩壊を思わせる音が遠雷のように響く。黒い衣裳を纏ったダンサーたちが舞台を走り抜けるようなダンスが続いた。
2幕に入ると、透明の大きなガラス板を周囲に立て、中央で勅使川原が踊る。後方から、動いているのが分からないほど静かに、女性ダンサーが接近してくる。
透明な目に見えないものと弱い光と影で構成された世界。存在の感覚というものをヴィジュアルにした光景であり、これもまた美しいイメージである。 |
『ガラスノ牙』 |
暗転すると、ガラスの破片を敷き詰めたスペースで勅使川原が激しく踊り、危険な緊張感が漲る。女性ダンサーはガラスの破片と戯れている。そして二人は細い管をくわえていて、音声を発すると鮮烈な反響が劇場中に響き渡る。女の絶叫、男の絶叫。ともに意味のない、無限を感じさせる音響だが、男の叫びには人間的な惚けたような笑いが含まれていた。
最後は勅使川原の見応えのあるソロ。
『ガラスノ牙』 |
ガラスは目に見えないものの象徴で、その破片の無数の反射は時間の破片。ガラスは透明で目には見えないが、鋭く危険であり、光を映してさらに不可視の時間の破片を積もらせ、有り得ない永遠を知らしめる。目に見えるものと見えないものが渾然となった存在の実感を鋭く突きつめたイメージが、見事に説得力をもって描かれていた。
(12月16日、新国立中劇場) |
フィリップ・ドゥクフレの『SOLO』----ソロなのにひとりじゃない
ソロとはひとりで踊ることであって、作品のテーマではない。ドゥクフレというアーティストを知らなければ、どこに作品の特徴を観ればいいのか不安に感じる観客もいるかもしれない。しかし、この作品はあくまで「ソロ」である。というよりソロ自体をテーマにしている。言い換えると、ひとりで踊ることの楽しさ、喜びを深く追究している舞台であり、実際、<ひとりで踊る>ということのエスプリがぎっしり詰め込まれたダンスである。
『SOLO』 |
チラシには、「ソロなのにひとりじゃない」と呼び込み文句が歌われていた。舞台を観ると確かにひとりじゃない。孫悟空ではないが、髪の毛の分身の魔法によって無数のドゥクフレが現れて、彼自身とコラボレーションしているのである。
とりわけ、ハリウッド・ミュージカルのモブシーンの振付の天才、バズリー・バークレーに捧げられたシーケンスはおもしろかった。
誰でも遊んだことがあるだろう、鏡に鏡を映して無限に相似形が続いて見える、あの現象を使って踊るシーン。ドゥクフレの動きに連れて鏡の中の彼が、次々と同じ動きを続けてていく。波が永遠に続くように、鏡の中のドゥクフレも永遠に縮小しながら存在しているのだろうか。
子どもが食事も忘れて、遊びに夢中に耽るように、彼のダンスには終りがない、かのようだった。
(11月30日昼、天王州 銀河劇場) |
『SOLO』 |
『SOLO』 |
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