インタビュー & コラム

コラム(その他)

身体にまつわるコラムやダンサー日記など、「観る」「読む」「学ぶ」コンテンツをお届けします。

コラム(その他)の記事一覧

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その十 エリアナ・パヴロバと服部智恵子

 服部智恵子は1908年12月25日、帝政ロシア治下のウラジオストックに生まれた。父は滋賀県出身の貿易商で、彼女は長女だった。 ウラジオストックでは日本人小学校に学んだが、ロシア人の友人も多く、社交ダンスを学びやがてバレエに魅了される。 サンクトペテルブルクのバレエ・アカデミーでアンナ・パヴロワと同期だったルジンスキーに師事して、クラシック・バレエをならった。   ルジンスキーは宝塚少女歌劇のため

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その九 エリアナ・パヴロバと東勇作

 東勇作は、前号でご紹介した橘秋子や貝谷八百子とともに、当時の日本には存在しなかったバレエを非常に熱心に苦労して学び、日本にバレエを確立しようと情熱を傾けた最初の人である。 特に東勇作は、ディアギレフによって世界的な評判となったバレエ・リュスへの関心が強く、海外から取り寄せた資料によってフォーキンやニジンスキーの作品の上演を果たしている。   中川鋭之助がまとめた「東勇作芸談」によると、「バレエな

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その八 エリアナ・パヴロバと橘秋子

 よくいわれるように、エリアナ・パブロバの下からからは、多くの日本バレエの先駆者たちが巣立った。東勇作、貝谷八百子、橘秋子、服部智恵子、島田廣などがその代表的な人々である。しかしみな日本のバレエの先達らしく、それぞれ自身の目的をもっていたので、つぎつぎと彼女の下から去っていった。東勇作はエリアナの公演がほとんど小品ばかりだったので本格的な全幕バレエを志向して去り、貝谷、橘は自立して自身のバレエ団を

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その七 オリガ・サファイアの遺品について

 むろん、「オリガ.サファイア展」で展示した彼女の遺品を解説するのにふさわしい人は、ほかにいると思われるが、暫定的にどんなものがあったか、主な書籍関係について簡単にご紹介させていただきたい。   まず、最も豪華な装丁で、一際、目をひいたスイチン社版のトルストイ作品集(全20巻)。これはオリガの夫君、清水威久の母校東京外国語大学に寄贈されているものである。革貼りの表紙に銅板などでレリーフが組み合わ

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その六 オリガ・サファイアのロシア時代

 オリガ・サファイアは、サンクトペテルブルクで三つのバレエ学校に通っている。   最初は1918年頃に、ミクロス男爵のバレエ学校に入学した。この学校はガガーリン街にあり、ガガーリン御殿とも呼ばれた建物を使っていた。この建物は現在も残っている。ミクロス男爵については不明だが、ニコライ2世の愛人としてマリインスキー劇場で権勢をふるったマチルルダ・クセシンンスカヤの兄のクセシンスキーがキャラクター・ダン

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その五 オリガ・サファイア

 オリガ・サファイアは、以前も述べたように1936年に、日本劇場でクラシック・バレエを教える、というひとつのはっきりした目的を持って、政治的な緊張が高まる時節に来日した。 その翌年からは外国人と日本人外交官の結婚は条例によって禁止されたから、今日からみると、日本のクラシック・バレエにとって際どい一年であったともいえる。   オリガは自分の職を探す必要はなく、旧ソ連を出発する際に準備を整え、はっき

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その四 オリガ・サファイア

 7月22日(木)から26日(月)まで、チャコット渋谷本店でオリガ・サファイア展が開催(名古屋店は7月29日~8月2日、心斎橋店は8月5日~9日)されるので、今月はオリガ・サファイアについて。   オリガ・サファイアは1936年(昭和11年)5月14日に、旧ソ連から日本にやってきた。その当時は、この年の2月に二.二六事件が起き、翌37年7月には廬溝橋事件から日中戦争が勃発しており、日本とソ連は満

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その三 エリアナ・パヴロバ

 日本にクラシック・バレエが入ってきた頃の状況について、前号までで少し触れた。今回は、エリアナ・パヴロバについて。   エリアナの来日には、彼女がたいへん美しいロシアの亡命貴族(しかも女性3人の家族だった)だったこと、日本人には未知のバレエという芸術家だったこと、彼女は日本への亡命を希望していたのではなく、やむなく日本に定着してしまったこと、などさまざまなポイントがある。   とりわけ、美しい

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その二

 20世紀初頭、モスクワのボリショイ劇場はまだ地方の一劇場に甘んじていたが、サンクトペテルブルクでは、プティパが中心となって高度なクラシック・バレエを構築したマリインスキー劇場で、今日観る舞台とほとんど変らないバレエが盛んに上演されていた。余談だが、全盛時代のプティパのグランド・バレエの振付がどれほど精密細緻なものであったかは、ヴィハレフの舞踊譜に基づく『眠れる森の美女』や『バヤデルカ』などの本格

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア はじまりのはじまり

西欧で生れ、育ち、発展を遂げたクラシック・バレエが、日本に伝えられたのは、いつ頃のことだろうか。  ちなみに、西洋音楽が日本で最初に奏でられたのは、1551年山口の領主、大内義隆に宣教師フランシスコ・ザビエルが、 小型の鍵盤楽器を献上、演奏した時、と言われている。その後、西洋音楽は、宗教や軍隊、あるいは国家式典などと関連して日本に移入される。  ダンスには音楽のように定かな記録はないが、明治8

  • #インタビュー & コラム
  • #コラム(その他)

2009/01/31掲載

ページの先頭へ戻る