咲き乱れるカーネーションの中で踊られた暴力と愛、20世紀末の人間たちを描いた傑作

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

『カーネーション NELKEN』ピナ・バウシュ:演出・振付

ピナ・バウシュの『カーネーション NELKEN』が日本で再び上演された。
さいたま芸術劇場の舞台全面に、薄いピンクや赤いカーネーションがびっしりと植え込まれている。無人のカーネーションだけの舞台が入場者を迎える。観客はすでにこのことは知っているはずだが、思わず見惚れ次々とスマフォをかざして写真を撮っていた。

(C) Arnold Groeschel

(C) Arnold Groeschel

ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の初来日公演は1986年で『カフェ・ミューラー』『コンタクトホーフ』『春の祭典』(招聘は日本文化財団)を上演した。『カーネーション』の日本初演は2回目の来日公演で1989年、会場は国立劇場だった。私は2回とも舞台を観た。
『カーネーション』の世界初演は1982年で、ピナ・バウシュがヴッパタール舞踊団のディレクターに就任してからほぼ10年が過ぎ、当初は数少ない観客に帰らないように頼み込みながら上演していた時代は過ぎ、エジンバラやアヴィニヨン、ロサンゼルス・オリンピック、ブルックリンなどのフェスティバルで作品の世界的評価が高まり、カンパニーの運営もすでに安定し軌道に乗っていた。

そして『カーネーション』の日本初演当時、私が編集していたダンスマガジンをみると、ピナ・バウシュが来日した前後には、バリシニコフが芸術監督だったABTや人気者のマラーホフが在籍したモスクワ・クラシック・バレエ、マッツ・エックが率いていた頃のクルベリー・バレエ、さらにローザスが『ミクロコスモス』を持って来日するなど、陸続と話題のカンパニーやダンサーが来日し、日本の舞踊芸術界がにわかに活況を呈していた時代だった。
そうした状況の中で観た『カーネーション』の印象は鮮烈だった。行き場のない暴力と満たされない愛、そして人間が他愛ない行為を繰り返す日常が、様々に断裂した様相を見せる20世紀末の現実として、舞台から直裁に観客の胸に迫ってきた。これらのファクターを紡ぐのは、ガーシュインの「The man I love」を始めとする20年代のジャズのノスタルジックなメロディに乗せたシンプルでダンサンブルな動きだった。ダンサーたちのたどたどしい日本語のセリフがユーモラスで、時折、現れるアイロニーがスパイスとなって、多彩な味わいが鋭く深い、実に魅力的かつアクチュアルな舞台だったと記憶している。

(C) Arnold Groeschel

(C) Arnold Groeschel

今回、観た印象は少し変わっていた。やはり、ピナ・バウシュが2009年に亡くなってしまったということが大きいのだろう。初演を観た時は、ダンサーへの質問を繰り返しながら作っていく、創造するピナ・バウシュの行為を肌で感じながら、一種の緊張感を感じながら観た。作者の存在感がそのまま作品のヴィヴィットな重みとなって、観客に伝わってきていた。しかし、ピナ・バウシュの不在は、作品をすでに完結した不変のものとして観ていることになる。
また、舞台の多くの部分を、他のピナ・バウシュの作品と混合してしまっていたことにも気付かされた。天井近くから段ボールの中に落下するシーンや「The man I love」を手話をしながら踊るシーン、ラストの春から冬へと季節が巡っていく歌はもちろん記憶していたが、ジャガイモの皮を剥いたり、玉ねぎを刻んで次々と顔をつっこをだり、誰かが常に怒って怒鳴っていたり、ゲームに熱中して大きな声を張り上げたり、見境なくパスポートの提示を求めたり、警察犬がダンサーの周りを嗅ぎまわる・・・・これらのエピソードというかシーンは、『カーネーション』だったのか、と改めて思い出した。ほとんど裸でアコーディオンをもった女性ももっとしばしば登場していたかのようだった。『カーネーション』を観ながら、知らないうちに初見の追体験をしていたのである。

最後に観客を立ち上がらせて、抱き合う仕草をさせ、その指導した男性ダンサーが、舞台上でスーツから女性の衣装に着替える。男性の中に潜む暴力的なものがカーネーションを踏みにじって暴走することを否定し、「お互いに抱き合って、巡る季節を楽しみ生きて行こうではないか、野に咲き乱れるカーネーションの中を」といったメッセージを感じたがどうだろう。
結局、オートマチィックにスタンディング・オベーションになったが、すべての観客は満足していたかのようにみえた。
(2017年3月16日 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

(C) Arnold Groeschel

(C) Arnold Groeschel

ワールドレポート/東京

[ライター]
関口 紘一

ページの先頭へ戻る