ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi 
[2013.09.10]
♪バレエ昔も今も♪BALLET OLD AND NEW♪
クランコ版『ロミオとジュリエット』の初演から50周年を記念して、初演のオリジナルキャストが参加したガラ公演が行われた、とフリーデマン・フォーゲルから聞いた。マリシア・ハイデが乳母、エゴン・マドセンが神父に扮したという。そしてレイ・バラの名前も挙がった。久しぶりに聞いた名前がじつに何とも言えず懐かしかった。
さらに今日のシュツットガルト・バレエ団では、タマッシュ・ディートリッヒがフォーゲルのコーチをしている、と聞かされて懐かしさは頂点に。彼の舞台を観てから久しい。
ハイデ&クラガンの次の世代のプリンシパルだったタマッシュ・ディートリッヒは、「端正」という言葉を絵に描いたような踊りも演技も決して乱れるところのないダンスール・ノーブルだった。ガラ・コンサートに出演しても大向こうを意識したポーズなどを決めることはしなかった。しかし時を経るにしたがって、タマッシュ・ディートリッヒの舞台の記憶が知らず知らずのうちに脳裡に染み込んで残っている、そんなダンサーだったのだ。今ではコーチだが、「彼はダンサーに対して、決して自分の踊り方を押し付けることはない。そのダンサーに合った踊り方を一緒に見つけようと努力してくれるのでたいへん助かる」、とフォーゲルは言う。まさに彼の人間性と舞台姿はごく自然に一致していたのだ、と私は10年以上の時を経て大いに納得させられた。
「ブラボー」「ブラボー」と泡を飛ばし、興奮を装って自身を売り込むのは、はた迷惑だが、こうした静かな記憶の堆積を残すダンサーこそがバレエの歴史を紡いでいる。私はそう思うのである。

島添亮子が熱演! 小林紀子バレエ・シアターがマクミランの『マノン』を再演

小林紀子バレエ・シアター
『マノン』ケネス・マクミラン:振付

小林紀子バレエ・シアターがマクミランの『マノン』を再演した。カンパニーとしての初演は、2011年11月に第100回の祝賀記念公演として行われた。その初演ではデ・グリューをゲスト・プリンシパルとしてロバート・テューズリーが踊ったが、今回は英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、エドワード・ワトソンが踊った。そのほかの配役は、ほぼ初演と同じで、マノンに島添亮子、レスコーに奥村康祐、ムッシュG.M.に後藤和雄、レスコーの恋人に喜入依里が扮している。ステージングは初演時のジュリー・リンコンから、シルヴィ・ギエムのマノン、ローラン・イレールのデ・グリューとレスコー役で共演した、元ロイヤル・バレエ団プリンシパル、アントニー・ダウスンが務めた。

tokyo1309a_01.jpg photograph by Kenichi Tomohiro

第一幕のデ・グリューがマノンとの出会いを喜ぶソロヴァリエーションは、神の啓示でも受けたかのように、ワトソンが伸び伸びと舞台全体を大きくつかって闊達に踊った。そしてこれから修道院に入って一生信仰の道を歩むはずの、しかし実際には未だ見ぬ世界への好奇心に満ち溢れるマノンとのパ・ド・ドゥへと続き、あまりにも無謀な駆け落ちに至る。それはファムファタールとの出会いだ、という人もいるが、天衣無縫といったほうが相応しい恋の誕生が感じられた。これが要所要所を説得力のあるパ・ド・ドゥで語るマクミラン振付の筆法の始まり。シーンが変わると無邪気で無警戒な愛の危うさに酔っているかのような二人の、喜びを踊るパ・ド・ドゥとなる。
第2幕のレスコーのソロヴァリエーションは、よれよれのステップも投げやりな表情も宙空をさ迷う視線もすべて完璧な酔っ払いで、恋人とも彼女への心を隠そうともせずにデュエットを踊りながら、ついには酔いつぶれる。奥村がレスコーの内面の頽廃を見事に表す踊りで、若く力強い表現力を見せた。さらに多くの男たちにリフトされるマノンと、その中に加わろうとするデ・グリュー。男たちの関心を一身に集めて誇らしげな気持ちになって、デ・グリューを無視しようとしてやはり無視しきれないマノン。ここでは動きの中に二人の距離感が現れて、たいへんおもしろかった。
見応えのあるダンスシーンが続いた後は、賭けトランプのいかさま騒動の果てに大立ち回りの剣劇となる。この派手なアクション・シーンへの転換を契機として、主人公の二人の運命も悲劇へと転落していく。この変換は優れて効果的な演出手法である。
そして二人は。またもやすべてを捨て去って逃亡し、再び二人きりになったパ・ド・ドゥを踊る。何不自由ない暮らしでも満たされなかった恋する心、しかしまた、ムッシュG.M.が与えてくれた豪華な暮らしにも未練たっぷりなマノン。ここでは、ジュリエットには決して現れなかった女性のアンビバレンツな面が厳しく描かれる。それは神学生だったデ・グリューの理性ではとうてい理解できない。しかし、理解できる女性が魅力的なわけではではない。むしろ逆なのだ。ホセは、理解できないカルメンを激しく求め、悲劇的運命から逃れることができなかった。
どのシーンもそれぞれのシチュエーションに合わせて、深く考えられた振付であり、登場人物の心理が物語の展開に沿って微妙に変化する。同時にマノンとデ・グリューの愛は深まり、分つことのできないものとなっていく。
第3幕は終焉の章。終生、まったくぶれずに激しく追い求めても満たされることはなかったデ・グリューの愛。その愛も悲惨な悲劇的終焉を迎えた。しかし、愛とは案外そんなものなのだ。そして悲劇を生きた人間が不幸なのではない、生きるべき悲劇を持つことができなかった人生が不幸なのだ、と知った。

tokyo1309a_02.jpg photograph by Kenichi Tomohiro

島添は細身の身体を120パーセント使い全霊を込めて熱演。1幕と2幕の冒頭部分以外はすべて出ずっぱり。最後はほんとうに息絶えてしまったのではないか、と共演のワトソンも心配したのではないかとさえ見えた。彼女はマクミランの『The Invitation』など多くの作品も踊っているから、それらの作品で描かれた女性的なるものを充分に体得しており、より深い島添亮子ならではの人間味溢れるマノン像が描けたのだ。それはもちろん、世界を見渡しても遜色ないマノンと言って良い。ワトソンも見事に踊りきったが、わざわざ本場英国から呼び寄せたゲスト・プリンシパルにしては少し影が薄かったようにも感じられた。それだけ島添が熱演だったということなのかもしれない。
マノンの死とジュリエットの死は、おそらくマクミランの中で女性像の対極として位置づけられていた、と思う。それは『The Invitation』『ロミオとジュリエット』『アナスタシア』『マノン』『マイヤリング』などの作品に描かれた女性像を辿っていけばおのずと明らかになるはずである。
プログラムに掲載された文章では、『ロミオとジュリエット』と『マノン』は驚くほど似ている、などと言って両者を比較しているが、同じ作者の作品が似ているからと言いって何を驚いているのだろうか。そしてクランコやアシュトン、チューダーまで持ち出して断片的知識をご都合よく繋ぎ合わせて論じいるが、そこには舞台芸術とは何か、という視点が欠落しているので無味乾燥だ。もう少し傾聴に値する文章を掲載して欲しいものである。
(2013年8月24日 新国立劇場オペラパレス)

tokyo1309a_03.jpg photograph by Kenichi Tomohiro tokyo1309a_04.jpg photograph by Kenichi Tomohiro