ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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浦野 芳子 text by Yoshiko Urano 
[2012.04.10]

能楽堂で踊られて、深く静かに掘り下げられた『藪の中』

島地保武 演出・振付『薮の中』
アーキタンツ

異ジャンルのダンサーたちによるコラボレーションは、身体表現としての新たな試みという意味のそれなら、過去にもいろいろ観た。今や、珍しくは無い手法だ。しかしこの『藪の中』では、異ジャンル、が新たな意味を持ち面白く際立って感じられた。

tokyo1204h01.jpg 写真:TOSHI HIRAKAWA(D-CORD)

物語のベースは、芥川龍之介の、あまりに有名な物語だ。妻を手込めにされた夫・金沢武弘の「死の真相」について、五人の登場人物が各々に証言を繰り広げる。夫と、盗賊・多㐮丸は、小尻健太と東海林靖志が入れ替わり立ち代わりに演じるのだが、妻・真砂を手込めにされた屈辱に耐えかね自害しようとする場面では、HIP HOPの動きが馴染んだ東海林の身体が、抑圧された悔しさ、凍りつくプライドを淡々と表現する。対して、その妻を手込めにしてかかる場面では、(日本人の男性としては初めて)ネザー・ランド・シアター Ⅰ で活躍したキャリアを持つ小尻の身体が、蛇のようにしなやかかつ執拗な動きで真砂の身体に挑みかかる。
その妻・真砂を演じる酒井はな。バレエで磨き上げられたしなやかな身体が、静謐な能舞台の中で思いがけない角度まで脚を振り上げたり肩をしならせたりすると、なぜかたまらなく艶めかしい。もしもあの動きが “ステージ” というカタカナの名前を持つ空間で行われたのであれば、少し違ったものに見えたのかも知れない。そしてそこへ、検非違使あるいは放免、時としては巫女となった津村禮次郎が、重厚な存在感で現れる。能楽堂をホームベースとする津村だけにその空間支配力は圧倒的だ。歩いて舞台を横切るだけで、重い空気の層がそこに出現するかのよう。
ところで、真砂をめぐるふたりの男が、入れ代わり演じているのを見ているとなんだかふたりがひとつのようにも見えてきた。つまり、こうだ。手込めにされる妻を見る夫は多㐮丸にもうひとりの自分を見、真砂のサディスティックな一面に魅かれた多㐮丸は自らの中に金沢武弘を見る。二人の中で互いが、重なり合う―。このあたり、いつか演出・振付の島地に尋ねてみたいところ。

それぞれに、それぞれの身体の持つ特徴を活かした動きを繰り出しながらも、振付に共通して流れているのは緩急の効いた動きだった。素速くしなったかと思うとまるで呼吸を止めたかのようにぴたりと静かになる、それは能の身体の運びにも通じるものを思わせる。やはり能舞台という空間には、連続した激しい動きよりそうした抑制のきいた動きがしっくりとくる。ダンスだから、と、複雑なステップや激しい躍動を期待して来場した人にはもの足りないかもしれない。けれども、ひとつの作品として全体を見渡した時、舞台と身体の動きが一致しない限りその作品は洗練された印象には見えないだろう。
それを、現在ザ・フォーサイス・カンパニーに所属している島地保武が演出・振付している、というところがまた心憎いのだ。フォーサイスといえば精密なテクニックと、身体がバラバラにされそうに複雑かつハードな振付でも有名。そうした人物のもとで活動する島地が、あえて日本の古典 “能” の舞台を背景に選び、その世界に挑んだのだ。同時に島地は、夫の死体第一発見者・木樵として作品冒頭部分の一幕をソロで演じる。ひとりで舞台に登場した島地の緩やかな動きが、いつダイナミックな変化を見せるのかと息をひそめて見守っていたのだが、ついぞ最後までその瞬間はやって来ず、能舞台にまばゆく広がる緑の“藪”の絨毯を抱えて島地は高々と掲げられた幕の中、鏡の間へと消えて行ってしまったのだ…。

tokyo1204h02.jpg 写真:TOSHI HIRAKAWA(D-CORD)

さて。物語に登場する5人は、それぞれ異なる証言をする。そのあたりは芥川の小説を読んだことがある人ならわかると思うが、真相は最後まで“藪の中”である。
しかし、記憶というのは、案外やすやすと自分を裏切っていたりもするものである。たとえば、心のどこかに鍵をかけて忘れた振りをしているイタイ記憶―そんなものが、誰にでも一つや二つ、あるだろう。それを象徴する話が、作品の終盤に登場する。
津村がおもむろに、歯医者で麻酔をかけられて手術に及んだエピソードを語りだすのである。麻酔をかけられた本人は全く痛みなど覚えていないが、どうやらその最中身体は激しく痛みに抵抗をした、らしい、という話。身体が確かに感じている痛みを、心は無視しようと働くのだ。そのような便利なもの、つまり麻酔が、歯医者でなくとも自然に人の記憶の中に放出されることなどあるはずは無いと、誰が言いきれるだろう?

さて、話は「異ジャンル」コラボの面白さに戻る。
そもそも真相なんて、ないのではないか。なぜなら、人の記憶などというものはこうしてたやすく、書き換えられることだってあるのだもの―。それを“異なる身体性”を持って演じさせたことで、書き換えられたりすれ違ったり、あるいはそもそも見えているものが違っているのかもしれないという、そうしたギャップを、異ジャンルの表現者たちの身体を借り、島地は伝えたかったのではないか―。心地よい裏切りに満ちた、2時間弱だった。
(2012年3月10日 セルリアンタワー能楽堂)

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写真:TOSHI HIRAKAWA(D-CORD)