ワールドレポート ~世界のダンス最前線~

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関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi 
[2011.09.12]
<どじょう宰相>が大いに話題になっている。どじょうは金魚にはなれない、という警句が受けるということは、どじょうなのに金魚と思い込んでいる人間がいる、ということだろう。もちろん、金魚には金魚の役割と人生があり、どじょうも同じだ。舞台の上なら、どじょうが金魚の役割を演じていたら一目瞭然だが、世間一般では奇妙にみえても消去するわけにはいかない。それが教育者であったり、指導的立場の人物であったりしたら、周囲が困惑するばかりでなく影響が波及する。どじょうなのに金魚になっている面がないかどうか、もう一度、考えてみようと思った。

マクミランを踊り続け、ついに『マノン』に挑戦した島添亮子

ケネス・マクミラン振付『マノン』
小林紀子バレエ・シアター
tokyo1109a01.jpg photograph by Kenichi Tomohiro

小林紀子バレエ・シアターは、百回祝賀記念公演としてケネス・マクミランの大作『マノン』を上演した。
創設以来、英国バレエを上演し続けてきた小林紀子バレエ・シアターは、近年、ジュリー・リンコンのステージングによりかなりハイピッチでマクミラン作品をレパートリーに採り入れており、これはそのひとつの結節点をなす公演ともいえるだろう。

マノンは島添亮子、デ・グリューはゲスト・プリンシパルのロバート・テューズリー、レスコーを奥村康祐、ムッシュG.M.を後藤和雄という配役だった。
幕開けは、高級娼婦や女優、紳士たちが集うパリ近くのホテルの中庭。修道院に入ることが決まっている純白の衣裳のマノンが馬車に乗って姿を現し、生真面目な紳士デ・グリューと出会ってたちまち恋に落ちる。しかし不逞の兄レスコーは、マノンに興味をみせる大金持のムッシュG.M.から大金をとって、妹を与える約束をする‥‥というもの。デカダンスが支配する時代風潮の中に咲いた、ひとつの愛の行方を暗示するオープニングである。

tokyo1109a03.jpg photograph by Kenichi Tomohiro

『マノン』は、小林紀子バレエ・シアターが2005年に上演した『The Invitation』で描かれたた女性という性のミステリアスな面と通底するモティーフを、それよりも成熟した女性を主人公にしてドラマティック展開している。これはマクミランが描く女性像のひとつの面を成すものとなっている。
また、マクミランのもうひとつの傑作『ロミオとジュリエット』では、中世のくびきから解放されるルネッサンス前夜を背景に、強靭なスピリットにより主体的に愛に殉じていく女性のを描いているが、『マノン』では、人生に開き直るかのように愛と官能にすがりついて破滅していく、女性像を浮き彫りにしている。さらに『ロミオとジュリエット』との照応でいえば、寝室のベッドの上で夜鳴き鴬の声に目覚め、純粋の愛を引き裂かれる悲しみのパ・ド・ドゥは、兄やムッシュG.M.の手から逃れて過ごす官能の悦びとなる。マノンは豪華なコートや宝石を贈られれば刹那的に幸せになるし、舞踏会では華やかに装い一身に注目を集めてちやほやされる喜びにも浸っているが、デ・グリューの一心不乱の愛を捨て去ることはできない。
そして終幕では、愛するロミオの死体とジュリエットが踊る悲劇のパ・ド・ドゥに対して、ただひたすら諦観を漂わすしかないマノンとデ・グリューの破滅へのパ・ド・ドゥが踊られる。その背景には、走馬灯のように過去の出来事の影像が巡っている。このイメージには、晩年に『パゴダの王子』の創造へと思い至ったマクミランの一種東洋的な心境の一端を伺うことができる。あるいは、アンリ・ジョルジュ・クルーゾーの映画『情婦マノン』(1950)のペシミスティックなラストシーンの影響も垣間見えるのではないか。
マクミランンの二つの傑作『ロミオとジュリエット』と『マノン』は、同じ愛と死の悲劇を描いているが、異なった時代背景により、女性という性の神秘を対照的な側面からアプローチを試みている作品である。ともにドラスティックな運命の変転を描いているが、作家の内面は冷静に整理が行き届いていることがみてとれる。

tokyo1109a04.jpg photograph by Kenichi Tomohiro

近年は集中的に『The Invitation』『コンチェルト』『エリート・シンコペーションズ』『眠れる森の美女』ほかのマクミラン作品への挑戦を試みてきた島添亮子にとっては、大作『ロミオとジュリエット』を残しているとはいえ、この舞台はダンサーとしてひとつ集大成とも言うべき演舞だったろう。『The Invitation』などでは、屈折した心理の入り組んだ表現の難しさもあって、ややぎこちなさもみられたが、今回の舞台ではさすがにマクミランのボキャブラリーを良く咀嚼し、動きの中に見事に感情表現を溶け込ませてたいへん魅力的だった。テューズリーとの体格差も感じさせずに、島添らしい繊細な表現を創っていたのには大いに感心させられた。指導者にも恵まれたわけだが、集中的にマクミランの難しいボキャブラリーをマスターした実績はじつに立派だ。
テューズリーはしっかりと人物像を描いた。このダンサーの表現はケレン味のないどちらかと言えば地味なものだが、全体を通してくっきりとデ・グリューという人間を浮かび上がらせる落ち着いた演技。終盤の絶望を表す表現にはもう一工夫を見せてほしかった、というのは観客の勝手な思い込みだろう。
奥村康祐のレスコーは堂々としたものだった。ムッシュG.M.に射殺されるまで、ほぼ互角にテューズリーと渡り合った。レスコーとしてはもう少し小物であってもいいのではないか、と思われるくらい大きなラインで人物像を描いた。さらにキャリアを重ねて細部の表現を積み重ねていって欲しい。
2012年の6月には新国立劇場バレエ団が、小野絢子のマノン、福岡雄大のデ・グリューでこの作品を上演することが決まっている。そうすると、小林紀子バレエ・シアターが、いつ『ロミオとジュリエット』を上演するのだろうか、と期待が大きくなってくる。今後は、日本のバレエにとってマクミラン作品の存在感がいっそう大きくなっていくことになるだろう。
(2011年8月27日 新国立劇場 オペラパレス)

tokyo1109a02.jpg photograph by Kenichi Tomohiro tokyo1109a05.jpg photograph by Kenichi Tomohiro