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秀 まなか Text by Manaka Shu 
[2010.03.10]

ムッサン/ペッシュ、デュポン/ブベニチェク、オスタ/ガニオ『椿姫』を踊ったダンサーたち

Ballet de l’Opera national de Paris パリ国立オペラ座バレエ団
Jhon Neumeier:La Dame aux Camélia  ジョン・ノイマイヤー振付『椿姫』
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ジョン・ノイマイヤー振付の『椿姫』は、新しい。口にするのも憚れるほどの鑑賞回数を重ねても、見る度に新鮮な発見があるのだ。
2月2日から3月4日まで行われたパリ・オペラ座バレエ団の『椿姫』、全15回公演は、早々にチケット入手困難状態に陥る。2006年6、7月のオペラ座での初演、同年9月の再演、2008年6、7月の再々演と、すでに4回目の上演を数えるが、パリでの『椿姫』への恋慕は絶大だ。まるで生前のショパンに誂えてもらったかのように、ぴたりと嵌るショパンの選曲(2010年はフレデリック・ショパンの生誕200周年に当たる。)、19世紀のパリにタイムスリップしたかと錯覚する豪奢な衣装、アレクサンドル・デュマの原作を忠実に再現する深い洞察に満ちた装置。19世紀の裏社交界を緻密に描き出す『椿姫』は、ノイマイヤーの<完璧な>振付を得て、完成される。完璧とは、一義的という意味ではない。濃密な人間関係を描いた振付は優しく、寛容。時と場所が変わり、踊るダンサーが変わると、新たなマルグリット・ゴーティエとアルマン・デュヴァルの物語が始まるのである。

デルフィーヌ・ムッサンは2008年からマルグリット役を、バンジャマン・ペッシュは初演時からアルマン役を踊っているが、2人で組むのは今回が初めて。ムッサンの役作りは原作を大事にすることにある。かつて、『椿姫』のもう一つの持ち役、マノン役も、ケネス・マクミラン振付の『マノン』のタイトルロールを踊った経験を生かして好演していたが、彼女には、マルグリット役の方が断然似合う。アルマンの父に乞われて身を引く健気なマルグリットの特質と彼女の個性がぴったりと嵌るのだ。1幕では、母のようにアルマンを包み込み、2幕では心からアルマンを慕う。そしてほっそりとした儚げな容姿そのままに、3幕で一人、死んでゆく。地味ではあるが、綿密に演技を積み重ねていく姿勢もまたマルグリットを彷彿とさせるのである。

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反対にペッシュは原作を斜めから捉えている。ペッシュのアルマンは原作通りの恋に燃える少年だが、ロマンティックさを通り越して、何もかもが力強く激しい。3幕の大舞踏会では傍若無人に振る舞い、マルグリットに罵声を浴びせる。マルグリットに2度も振られた(と思い込んでいる)腹いせだとしても、常軌を逸した泥酔ぶりは演技過剰だと初演時から毎回、疑問を感じずにはいられなかった。だが今回、初めて納得がいった。というのは、愛を交わしたマルグリットに去られた後、大舞踏会への身支度を整えている最中に、ペッシュは1幕で使用した白椿を掴んで床に投げつけたのだ!誰もがしなかった「白椿の投げつけ」は、マルグリットへの尋常ならぬ愛情の深さを端的に説明し、マルグリットをとことん苛め抜く行為の裏側を一気に語った。考えていなさそうで、実は恐ろしく計算している緻密さがペッシュにはある。

対照的に原作を捉えているムッサンとペッシュだが、カップルとしての相性は意外な相乗効果を発揮し、知性が迸る舞台となった。マルグリットに、子犬のように甘えるアルマンが、対等の立場になり、やがてアルマンが主導権を握るという2人の表面的な関係の経緯をくっきりと浮き彫りにした上で、自分が先導している認識があるアルマンを、実は全ての運命を決めていたマルグリットが、掌の上で転がしていた、という二重の関係まで描き切ったのである。
ただし、技術的にはアラが目立つ。もともとデュポンやルテステュほどの強靭なテクニックを持っていず、引退年齢が近付いたムッサンは、3回目の舞台ではよくまとめていたが、ペッシュの調子がどうもおかしい。いつもは正確な技術の裏付けがある彼が、ピルエットやアラベスクを流し、リフトは不安定。ムッサンが怪我をするのではないかと思わせる危なっかしさと、重い荷物を運ぶような<どっこいしょ>感が常につきまとい、パ・ド・ドゥへの陶酔を妨げた。ムッサンはペッシュが組めるぎりぎりの身長だ。『アルルの女』、『ジゼル』では、絶妙な味を出していた2人でも、3つのパ・ド・ドゥの、過酷なまでのリフトで愛情表現をする『椿姫』では、無理があるかもしれない。

その点、オレリー・デュポンとイリ・ブベニチェクのリフトは異次元の滑らかさだった。現在ドレスデン歌劇場バレエで活躍中のブベニチェクは、ノイマイヤーのお膝元、ハンブルク・バレエに13年間在籍していただけあって、さすがの手腕。ブベニチェクのサポートの手を全く感じさせず、まるでデュポン自身で、宙に浮かんでいるよう。もちろんデュポン自身のバランスの置き方の巧さも手伝っているが、ブベニチェクの紳士的な態度がずば抜けているのだ。例えば、2人で同じステップを3回繰り返して、リフトになるとする。すると、ブベニチェクはステップを2つに減らして、構えに入り万全の態勢を取る。しかも、デュポンを待っている行為を演技に変えてしまう。マルグリットを逃すまいと、アルマンが見張っている、と思えてくるのだ。
更に、振付家でもある彼ならではの、ちょっとした洒落た発想を散りばめる。デュポンが差し出した手にキスする時も、すぐ手を見るのでなく、デュポンの顔に視線を残しながらキスしようとし、席を勧められても、「僕?」と聞き返してから座ろうとする。全ての振付と段取りを自然な会話に変え、観客により強い印象を残す彼には、既に熟知している所作にも新たな驚きを覚え、釘付けになってしまう。

ブベニチェクの会話を受け取る、デュポンも一歩も引かない。冷たく高飛車な態度で、近寄り難いオーラを醸し出す登場から、段々と繊細さと可愛さを併せ持つ少女に変化していくものの、最後までたおやかさは失わない毅然としたマルグリット。デュポンの身体から、踊り込んでいる振付がよどみなく流れ、最小限の演技で最大の効果を生むドラマが造形される。今回、目を見張ったのは、視線外しだ。ヴァリエテ座で、見つめあうのはただ1度。長時間に及ぶブベニチェクの熱い視線をデュポンはことごとく外すが、背中には恋慕の情が滲み出る。そして、シャンゼリゼ通り。三角関係に陥り、新恋人のオランピアをあからさまに見せつけるブベニチェクの視線もデュポンは遠ざける。見つめるより、視線を外したほうが、2人の近くて遠い距離感が強調されると初めて知った。
技術も経験も万全な2人の舞台は、神がかり的な域に突入していた。1幕での出会いから、振付を通した会話の応酬はどれもこれも、感嘆と驚きの連続で、ありそうでなかった『椿姫』。これが、ノイマイヤー作品の素晴らしさだ。すべての振付を完璧に消化し役と一体化すると、2人の間に化学反応が起こる仕組みになっている。振付を厳守した先には、いかようにも料理できる自由が待っているのだ。ブベニチェクとデュポンは優に原作を超越しており、舞台で、<役を生きていた>。

この、<役を生きる>感覚への扉を開け始めたのは、マチュー・ガニオだ。ブベニチェクが原作にはないアルマン像を作り上げたとすれば、ガニオのアルマンはあくまで原作に忠実。彼は生まれながらの、アルマン役者だ。非の打ちどころのない容姿、万全のテクニック、ロマンティックな性格と、どこを取っても原作から抜け出たようなアルマンそのもの。今までにも既に素晴らしいアルマン像を造形していたが、今回は、それ以上。完璧の上があったのか、と嬉しい裏切りにはっとさせられた。
まず、舞踏会の梯子をするマルグリットの帰りを待つ細かい演技。以前は毎回同じで、どことなく一生懸命さが見え隠れしていた演技も、楽しみながら微妙に変化させる余裕が生まれていた。マルグリットの置き土産の白椿を持ちながら、それよりも前に受け取った赤椿をはじいてみたり、横座りをしたり、立ったり、ぼーっとしてみたり。技術面の格段の向上と相まって、振付と演技、所作、すべてがアルマンのセリフとなって流暢に流れ出しているのである。
そして、最大の驚きは、彼の眼の色彩だ。時には輝きが、時には陰影が迸る眼は、マルグリット自身が書いた日記の真実を語る。3幕の最後、アルマンの後方で、日記に書かれた当時の状況を再現するマルグリットを見なくても、日記を手に虚空を見つめる彼の、衝撃と落胆の混じった眼を見れば、内容が分かるのだ。ガニオは舞台でアルマンと同化し、アルマンとして生きる術を掴み始めた。だから、動かずとも、ただ視線を上げただけで、物語ることができるのだ。
ただし、相手役は選ばなくてはならない。クレールマリ・オスタのマルグリットはどうひいき目に見ても、いただけない。予定されていた5組(シャラヴォラの降板により結局6組になった)の中で、唯一、初演時から組み続けているカップルであるが、完璧なガニオを前にして、オスタでは、スケールが違い過ぎる。

繊細な『椿姫』の世界のすべては、完全に振付を消化することから始まる。ネオ・クラシックといえども、『椿姫』はクラシック・バレエの技法が基になっており、その技術を積み重ねることで、マルグリット像を描くことになる。だが、そもそも彼女の身体は硬く、アン・ドゥオールは不十分。完璧なアン・ドゥオールを持たない、傑出したダンサーは世界には何人もいるが、彼女の場合、その技術不足の補い方が問題なのだ。あろうことか演技でカバーしようとし、しばしば演技過剰になる。明瞭な演技で観客に理解してもらおうとする意気込みは分かるが、咳一つで激しく身体を揺り動かす。そこまで、咳き込んでいて、なぜ踊れるのか、と白けてしまうし、最後までドタバタと動き回っておよそ死にそうにない。さらに、演技にのめり込む余りに、音を外す。音と戯れることで粘りが出るとか、美しいフォルムの残像を与えるといった音を外す効果は、彼女からは生まれず、逆効果だというのに…。

初演時、再演時にはガニオの経験不足とオスタの体重の消し方が災いしていたリフトの<どっこいしょ>感は嘘のように消えたものの、ガニオが役を深め、アルマンとして生きるには、彼女では役不足なのである。
今年26歳を迎えるガニオに、今年37、36歳になるデュポン、ブベニチェク。10年前の、デュポン、ブベニチェクは、現在のガニオの域までには達していなかったことを考えると、ガニオの10年後は、想像を絶するアルマン像を披露するはずだ。そのためには、一刻も早く、ガニオと化学反応を起こせるようなマルグリットに出会ってもらいたい。
技術を完璧に消化し、役を生きる域に達していたダンサーは、他にもいる。初演時からそれぞれ、N伯爵、ガストン・リューを持ち役としているシモン・ヴァラストロとジョシュア・オファルトだ。前者は毎晩マルグリットに殴られても(マルグリットは本当に彼を殴っている!)大きな眼でマルグリットを追い続けて、誠意をつくし、後者はムチを振り回しながら、斜に構えた粋な遊び人の役と戯れる。同じガストン役に初役で挑んだヴァンサン・シャイエはおどけた態度の、一風変わった役作りで健闘し、踊り込んでいけば、素晴らしいガストンに仕上がるだろうという才能の片鱗を感じさせた。

そして、忘れてはならない人がもう一人。元エトワールで、現在バレエ団教師のミカエル・ドナールだ。現在65歳の彼は、エトワール引退後も名脇役として活躍し、2006年の『椿姫』の初演時からずっと、圧倒的なアルマンの父親役を踊り続けていたが、2月25日が、最後の舞台となった。往年のファンはどんなに小さい場でも、舞台で彼が出る度に熱い拍手を送っていたが、カーテンコールは、気さくで茶目っ気のある本人の性格そのものの、さわやかさで満たされていた。
次号続報では、アニエス・ルテステュ、ステファン・ビュリョン組、怪我により1回だけの登場になってしまったイザベル・シャラヴォラ、カール・パケット組、そのシャラヴォラの代役を埋めることになったムッサン、パケット組について、お伝えする予定だ。

アレクサンドル・デュマ・フィス原作の小説によるプロローグと3幕のバレエ
Ballet en un prologue et trois actes d’après le roman d’Alexandre Dumas Fils

音楽/フレデリック・ショパン
振付・演出/ジョン・ノイマイヤー
装置・衣装/ユルゲン・ローズ
照明/ロルフ・ヴァルター
リハーサル:ヴィクトール・ヒューズ、クロード・ド・ヴルピアン
オーケストラ:パリ・オペラ座管弦楽団
指揮:ミヒャエル・シュミッツドルフ
ピアノ:エマニュエル・ストロッセル、フレデリック・ヴァイセ=クニッテル

Photos Sébastien Mathé
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