唐津 絵理 text by Eri Karatsu 
[2009.10.13]
[ウィーン]

ウィーンで観たキリアン、マラン、アンヌ・テレサ他、気鋭の振付家のダンス

「インパルスタンツ(ImPulsTanz)」レポートの第2弾は、フェスティバルで上演されていたパフォーマンスについての報告です。インパルスタンツは、夏休みの約1ヶ月間に、10ヶ所を超える劇場や美術館、ギャラリーにて、40以上の公演が上演されています。ここでは筆者が見た中から興味深かった10作品について報告したいと思います。

まずは、メインストリームのアーティストの作品から。
・イリ・キリアン ”LAST TOUCH FIRST”

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オランダのネザーランド・ダンス・シアターで30年以上にわたって創作を行ってきたイリ・キリアンは、コンタクト・インプロビゼーションのマイケル・シューマッハと共同で振付を行った ”LAST TOUCH FIRST” を上演。実はこの作品には、もうひとり深く関わったアーティストがいる。ネザーランド・ダンス・シアターIIIで活躍していたザビーネ・クップファールベルクだ。ネザーランド・ダンス・シアターは、ダンサーの年齢に応じて、I からIIIまで3つのカンパニーをもち、他のカンパニーではすでに引退しているようなシニアー世代でも年齢を重ねたダンサーにしかできない作品を提供、活躍する場を与えてきた。近年このカンパニーIIIがなくなったことを残念に感じていたが、IIIのメインダンサーであったザビーネがシューマッハと共にインプロヴィゼーションの方法論をベースに創作した作品が ”LAST TOUCH FIRST” に発展したという。
会場となったアカデミー劇場は、赤と金を基調としたザ・ヨーロッパといった趣の劇場で、古典的な形式美の雰囲気を伴った本作品に相応しい煌びやかさで、舞台上に並んだ真っ白い家具がその神々しさをさらに引き立てている。
冒頭、わずかなピアノの音色が聴こえてくる中、男女3名づつ6人のダンサーが浮かび上がる。白い家具や床に敷き詰められた白布が、3組の貴族のカップルの不自然さを予感させているように感じられる。椅子に座っている者、ダイニング家具のそばに立っている者、6名が各々にスローモーションでゆっくりと動き始める。身体だけではなく、その顔もまた次第に表情を変えていく。男の上に足をかける女、テーブルに横たわる貴婦人、鏡に押し込まれる男など、不自然なポーズが不気味さを一層助長する。動きの緩慢さとは反対にその中で増幅していくように感じられるそれぞれの感情、少しずつズレていく距離感や埋まらない溝などをスローモーションを用いることで、強烈に印象づけていく。どの場面を切り取っても美しいダンサーの造形美は絵画の前におかれたオブジェのようだし、緊張の糸を張り巡らせるかのような繊細な音楽も効果的。存在感のあるダンサーの魅力を存分に引き出した秀作だ。(2009年8月3日)

・マギー・マラン ”DESCRIPTION D’UN COMBAT”

マギー・マランの新作 ”DESCRIPTION D’UN COMBAT” は、ウィーンの観客の期待を裏切った。日ごろそれほどブーイングが聞かれないというウィーンにあって、近年これだけの騒動になった公演は珍しいという。
観客の失望の理由は主に2つ。ドイツ語圏のウィーンにあって、字幕なしで、常にフランス語で語り続けたこと。そして、パフォーマンスにはダンスらしい動きが皆無だったこと。観客たちから発せられる数々の野次に、遂には上演が止まってしまうかと思われる瞬間が何度もみられた。
舞台上は美しいが終始ほの暗く、細かい動きを見ることは困難だ。布が重なり合いでこぼこした舞台の上をダンサーらしき人たちがゆっくりと歩き始める。あてもなく彷徨っているようにもみえる彼らは、終始、フランス語で語り続ける。時おり床に跪いては、敷き詰められた青い布を剥がし、マントのように身に纏う。青色の布を剥がすと、その下からは金色の布がのぞき、またその布を剥がしていくと、そこには赤い世界が舞台一面に広がっている。そして最後の場面、さらに赤布を剥がすと、そこには無残に転がる兵士の甲冑の数々。槍や国旗を拾い集める人々。死体が転がる戦場を想起させるヴィジュアル的なインパクトは大きく、皮肉にもこの悲惨な光景を美しいとすら感じる。生と死に正面から向き合った真摯な作品だが、「踊れ!」と叫び続けた隣の女性の気持ちも理解できる。これが演劇作品だったとしたら、観客の反応は随分違ったものになっていたに違いない。しかしもしかしたら観客に媚びることないマギー・マランの潔い創作態度にも敬意を払うべきなのかもしれない。(2009年8月3日)

・マギー・マラン『メイB』

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新作と共にインパルスタンツで上演されたのは、彼女の初期の傑作『メイB』。いわずと知れたこの作品は、老いと死がテーマになっている。社会的な問題に鋭く切り込んだマギー・マランの視点に、老人のぎこちない所作や行動が、シリアスな問題をコミカルでユーモア溢れる舞台に仕立てるのに成功している。
舞踏ダンサーを思いおこさせるようなガニ股姿勢で、10名の白塗りの老人が整然と行進をしながら円を作ったり、すり足、集団で舞台を右往左往するなど、老人ホームでの行動を覗き見しているかのような冒頭。行進曲に踊らされ、無音になると、素に戻る。突然歌いだす人もいれば、ケーキを貪り食い、女を奪い合ったりもする。子どもに戻っていくように人間の本性がメキメキと顔を覗かせる。
後半、目に見えない死の恐怖と戦う老紳士や、旅支度を終え、大きな荷物を抱えた老人たちが三途の川らしき道をトボトボと渡っていく。そして遂にはひとり置いていかれる老婦人。誰もがいつかは経験するはずの死の恐怖を突きつけられる終焉。
初演から28年も経た今も、そのテーマは古臭くなるどころか、高齢化社会の現在、一層のリアリティをもってわれわれに迫ってくる。(2009年7月30日)

・アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル『ローザス・ダンス・ローザス』

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ローザスは1983年に初演し、彼女たちのデビュー作となった『ローザス・ダンス・ローザス』を8年ぶりに再演した。この作品は1995年には日本でも上演されたが、コンテンポラリー・ダンスでは珍しい連日ソルドアウトを打ち立て、その公演は伝説となった。その後、DVDが発売されたので、映像でお目にかかったダンス・ファンも多いかもしれない。今回の再演は初演と同様、振付家のアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル自身が踊るということも話題のひとつだった。
ティエリー・ドゥ・メイとピーター・ヴェールマッシュによるミニマルな音楽に呼応するように、わずかな動きを増幅させながら、ひとつずつ動きを積み重ねていく序盤。5つに分かれたパートの中で、最初は床、そして次は椅子で、最後は立ち上がって、繰り返す数々のフレーズ。一度動き出すと止めることのできない歯車のように、4名の女性ダンサーは音楽を支柱としながら複雑な網目模様を描き出す。
「シンプルな動きを繰り返し行うことによって、ダンサーの人間性が浮かび上がるのよ」、上演前のインタビューで、そう話していたアンヌ・テレサ。腕で宙を切る、回る、転がるなど、空間を切る極めてシンプルな動き、さらにブラウスを引っ張る、髪を掻き上げるなど、具体的なはっきりとした身振りが何よりも強い強度をもっている。抽象的なダンスと日常的な身振りの融和、そこには、日常に滑り込もうとするダンス作品の挑戦が見え隠れする。次第に複雑になっていく構造の中で、一瞬の隙をぬって迷子になりそうなダンサーたちの張り詰めた緊迫感が、90分もの間、観客を掴んで放さない。
後半、疲労を隠さないダンサーたちの人間性が浮き彫りになる。動きの抽象と具象、計算し尽された緻密さとダンサーから零れ落ちる感情、攻撃性と親和性、均一性と独自性、相反する相互作用が対比されつつも不思議な調和を見せる。それは、人間界にある自然の融合性を示唆しているようにも思える。別段何かを語ろうとはしてないが、無心に動き続ける彼女たちの感情のほとばしりが、物語以上の物語を語っていた。
この作品は、2010年10月、あいちトリエンナーレ2010にて上演予定だ。アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの踊る『ローザス・ダンス・ローザス』が日本でも見える日が楽しみだ。(2009年7月28日)

・ザヴィエル・ル・ロワ『春の祭典』

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インパルスタンツでは実験的な作品も数多く見られた。ヨーロッパでは定評のあるアーティストの作品の中でも観客の評価が真っ二つに分かれたのが、ザヴィエ・ル・ロワの『春の祭典』。コンセプトは極めてシンプル。イゴール・ストラヴィンスキーの名曲『春の祭典』を指揮しているサイモン・ラトルの動きを寸分違わぬようにトレースし、舞台に上げるだけという作品だ。
指揮者には、演奏者への合図を送る司令塔としての役目は置いておいたとして、まるで踊っているかのように感じられる瞬間があることは誰しもが一度や二度は感じたことがあるだろう。サイモン・ラトルの動きに魅せられたザヴィエ・ル・ロワは、演奏家への合図のはずの指揮の動きが、あたかも音楽から導き出されたかのように見えたことから、それを実際に舞台上で証明してみせたのだ。彼の指揮するベルリナー・フィルハーモニーの録音演奏に合せて指揮を振ってみせるザヴィエ・ルの向こうには、100名もの演奏者が見えるよう。
どこまでが記号で、どこまでが身振りか。観客は指揮者を見ているのか、音楽を聴いているのか。ライブ演奏を聴くとはどういうことなのか。そして、聴くということが身体的な経験となったとき、観客が真に聴いているのは何なのだろうか。様々な問題を提起するこの作品は、コンセプチュアルな作品を好む観客層からは大いに賞賛を得ていたが、舞台上に上げるまでもない、という声が聞こえたもの事実。ただし、彼の演技は凄かった。舞台で証明してみせることが、そのすべてである、とも言える「パフォーマンス」にあって、40分間のエネルギッシュな指揮者ぶりは見事。それを見れただけでも収穫だった。
(2009年7月30日)

・ボリス・シャルマッツ“50 YEARS OF DANCE”

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ボリス・シャルマッツもアヴァンギャルドな作風で、日本でも知られたアーティストだろう。このフェスティバルでは、マース・カニングハムに捧げた作品 “50 YEARS OF DANCE”を、「振付家の冒険」と呼ばれるコーチング・プロジェクト受講生に再振付して上演した。
マース・カニングハムを称えたこの作品は、「カニングハムの50年」と題した彼のドキュメント集にインスピレーションを得て創作をされた作品だが、カニングハムのこれまでの様々な創作手法や創作プロセスなどをコラージュしたオムニバス形式の実験的な作品となっている。
白いリノリウム上に立つ13名のカラフルな総タイツ姿のダンサーが眩しい。前向きで観客をまっすぐに見つめるようなポーズと素早い動き、集団での移動と個のヴァリエーション、動きはいずれもカニングハムのメソッドを想起させるもの。そしてそれらの動きの流れは突然、断ち切られる。場面ごとにコラージュされた様々なジャンルの音楽が流れる。サンプリングされた具体音、ロック、クラシック、民族音楽等など、切れ切れの音楽と突然の暗転、そして断片のようなダンスは、物語的展開を嫌ったカニングハムの生涯を想起させるメタ・カニングハムともいった内容だ。折りしもカニングハムは、この上演の4日前、7月26日に90年の生涯を閉じた。残念ながら、シャルマッツのこの作品は、カニングハムの本当のオマージュとなってしまった。(2009年7月30日)

・松根みちかず、ダービッド・スバル『One hour standing for』

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ウィーン在住の日本人ダンサー松根みちかずとダービッド・スバルによるインスタレーション/ライヴ・パフォーマンス『One hour standing for』は、展示会場のギャラリーで行われた。24台のテレビモニターには、24カ国の首都にある名所名跡の前で撮影された映像が映し出されている。ピラミッド、凱旋門、パルテノン神殿等などの前でポーズをとった二人は1時間の間、そのポーズを保つことになる。展示はこの24時間分の映像で構成されている。映像中、ポーズをとった2人に話しかける観光客や、一緒に記念撮影する人など、温かな出来事から、警官が立ち退きを命じる場面など、リアルな物語が生まれている。
そして展示会場でも、松根とダービッドは実際にその場で静止する1時間を丸のままパフォーマンスに仕立ててしまった。彼らの周りでおどける観客や一緒に静止する観客、写真を撮る人等など。映像の中の光景が、目の前に再現される。深く関わらないことによって、コミュニケーションが生まれるという逆説的な手腕が、現代を象徴しているようで興味深い作品だ。この作品は、12月4日(金)に、高知県立美術館で上演される予定だ。(2009年8月3日)

・セシリア・ベンゴレア&フランシス・シャイゴナルド『シルフィード』

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メインプログラムの芸術監督は、フェスティバルの創設者のカール・レーゲンスグルガーだが、若手振付家を紹介するシリーズ『8:tension』と呼ばれる若手振付家シリーズのキュレーションは、女性ディレクターのクリスタ・スパットが務め、カールとはまた異なる彼女独自の基準で作品を選んでいる。特にこの『8:tension』は国際的にはまだ知られていない若手のアーティストを発掘することを目的としているため、いわゆるダンスの枠から大きくはみ出した作品も多かった。
フランスのセシリア・ベンゴレア&フランシス・シャイゴナルドは、アヴィニヨン・フェスティバルでも上演した『シルフィード』を上演。空気の精、シルフィードのタイトルから想像していた舞台との落差があまりに大きかった。大きなゴミ袋から空気を吸い出すと、そこには妖精とは似ても似つかぬゴミ袋に包まれたゴム人間が。生きている者と死んでいる者との間を行き来することのできると言われるシルフィードを、有形的な物質としてではなく無形の魂の交感として描く、という彼らの発想は独創的だが、コンセプトを読まなければ、ゴミ袋に包まれフワフワと漂っているゴミ袋人間にしか見えない。
(2009年7月26日)

・コレッド・サルダー “The Making Of Doubt”

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英国のコレッド・サルダーによる“The Making Of Doubt” は、等身大の人形と人間を複雑に絡めたパフォーマンスを行うことで、ダンスと舞台でイメージされるものの差異をなくそうと試みているという。舞台上手にはダンボールでできた2つのロッカー。黒のフード付のパーカーを着た6体の人間が重なったり、抱き合ったりして動いている。次第にパーカーを脱がせていくことで、このうちの数体は人形であることがわかってくる。しかしその動きはまるで生きているかのよう。男の後ろに絡ませた腕は意思をもっているかのごとく、男の背中を擦る。また女と抱き合ったままの人形は、自ら足を上げようとしているかのように、足を空中に放り出す。人形の動きに合わせたダンサーの動きは、制限の中から普段気づきもしない動きが導き出され、動きの幅が広がっていて興味深い。ただ、あまりに素のままのカジュアルな舞台が作品をチープな雰囲気にしてしまっているのが残念。実験的な作品とはいえ、観客に見せる以上もう少し洗練した舞台に仕上げて欲しいと感じるのは贅沢なことか。(2009年7月31日)

・デルガド・フッシュ “Manteau long en laine marine porté sur un pull à encolure détendue avec un pantalon peau de pêche et des chaussures pointues en nubuck rouge”

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スペインとスイス出身のカップル、デルガド・フッシュの“Manteau long en laine marine porté sur un pull à encolure détendue avec un pantalon peau de pêche et des chaussures pointues en nubuck rouge”は、コンセプト落ちすることなく、恵まれた身体能力とダンステクニックを生かしたオリジナリティ溢れる作品だった。
まず、会場のロビーには、水色とピンクの水着を着た男女1組のダンサーが美容器具に座ってストレッチなどのエクササイズを行っている。今はやりのエクササイズビデオそっくりだが、優れた柔軟性とほのかに漂うセックスアピールぶりに何となく奇妙に感じながら公演会場へ。
舞台上には、ビデオで見た同じ水色のパンツ一枚の男性が上手から現われ、軽くストレッチ。続いてピンクのビキニ姿の美女が紙袋と大きな円形の器機をもって登場。軽いストレッチのつもりが、さりげなく180度の大開脚に。ロビーの映像から展開してくように、現実には美しいポーズを決めたと思ったらそこからほんの少し奇妙な動きに変化したりと、映像でみた完璧さが崩壊していくよう。音響機材のボタンを押し、ポップスを聴きながら、乗りよく踊る女性ダンサー。テクニックに裏打ちされた身体遊びが、奇妙な生き物に見えたり、ショーダンスの一場面に変化したり、はたまた2人の関係が男女の恋模様に見えたりと様々に発展。シンプルな男女の身体だけで、いくつもの場面を見せていく。動きの組み合わせのセンスやコント風の進行など、すべてが舞台と観客、男と女のギリギリの駆け引きの中、小気味良く展開されている。舞台に漂うさりげなさの中に、綿密な計算がなされているのがわかる。
最後には、フォーマルなブルーのスーツを着た男性と、ピンクのワンピースを着た女性が、等身大のパネルを持ち込んでくる。顔の部分に穴が開いたパネルは、動物園でよく見かけるあの写真撮影用のパネルだ。公演終了後、このパネルに顔を突っ込みポラロイドカメラで「ハイ、チーズ!」。ロビーでのビデオ鑑賞から、終演後のお土産写真まで付いた粋なパフォーマンスだった。(2009年7月31日)