岸 夕夏 text by Yuka Kishi 
[2017.06.12]
[ オーストラリア ]

『くるみ割り人形--クララの物語』-----激動の歴史の中でひとりの女性が捧げた舞踊への愛

AUSTRALIAN BALLET オーストラリア・バレエ団
“GRAEME MURPHY’S NUTCRACKER – The Story of Clara” Choreographed by Graeme Murphy
「グレアム・マーフィー版『くるみ割り人形―クララの物語』」グレアム・マーフィー:振付

グレアム・マーフィー版『くるみ割り人形』は、オーストラリア・バレエ団の長年のファンやダンサーたちにとって懐かしい邂逅のような作品だ。デヴィッド・マカリスター芸術監督は、ユーモアと愛情をこめて「僕たちの『ユーカリ・くるみ割り人形』」と公演カタログの中で語っている。このバレエは、オーストラリア・バレエ団設立30周年を記念してマーフィーに委嘱され、1992年の世界初演以来オーストラリア国内では4度目のリバイバルされている。
ロシア革命、第2次世界大戦と激動の時代の波に翻弄されながらも、舞踊に愛を捧げたひとりのバレリーナの生涯が描かれている。「クララの物語」と副題がついているように、子どものクリスマス・ファンタジー的な古典バレエの『くるみ割り人形』とは内容がかなり異なる。そのため、あらすじについてはオーストラリア・バレエ団が2010年に日本公演をした際に、佐々木三重子さんがお書きになったワールドレポートをご参照いただきたい。
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-tokyo/tokyo1011b.html

1706ab_01.jpg TAB  "Graeme Murphy-NUTCRACKER”  Jarryd Madden & Leanne Stojmenov,
photo by Daniel Boud

観客が劇場に入ると、開演前にもかかわらず舞台はすでに始まっているかのよう。舞台左半分は鉄製の四角い物干しがあるさびれた雰囲気の裏庭。そこでは裸足で遊ぶ子どもたちがワイワイと声を上げている。舞台右半分にはクララの家がセピア色のセットで組まれ、物語の主人公の慎ましやかな人生が観客に語りかけてくる。
マーフィー版『くるみ割り人形』では、主人公クララを子ども時代、トップバレリーナへと駆け上がってゆく若い頃と老年の死に至るまでを、3人が年代別に演じている。
シドニー初日公演で老年クララを演じたのは、旧キーロフ・バレエ・アカデミーで学び、後にオーストラリア・バレエ団に加わったロシア人のアイゴール・ガイシナだった。医師に昔の恋人の面影を見出した時の瞳の輝き、気品と威厳のあるステップ、往年のバレリーナの身のこなしは健在だ。
1幕の冒頭に登場する7人のクララの旧友は、物語の中だけでなく、皆かつてはダンサーだった。その中には今年83歳になるオーストラリア・バレエ団創設時のメンバー、コリン・ピースリーの元気な姿が見られるのはうれしい。ふくよかな体形になっているシルバー世代のダンサーたちのマイムはユーモアに溢れている。お年を召した男性ダンサーが別の男性ダンサーをリフトしようとしたり(もちろん出来ない)、おばあちゃまダンサーがハンサムな医師に言い寄る様は楽し気で、そのマイムと踊りは客席を沸かせた。

1706ab_02.jpg Kevin Jackson & Leanne Stojmenov, photo by Daniel Boud

シドニー初日公演の医師・将校の役はプリンシパルのケビン・ジャクソンだった。若き日のクララ役はプリンシパルのリアン・ストジェベノフ。将校姿のジャクソンは片方の肩にクララを乗せ、クララ役のストジェベノフは羽があるように軽々と舞う。恋人同士のめくるめく感情を、ひじから手首を素早く絡ませたマーフィーの特徴ある振付は印象的に表した。舞台セットはすべて取り除かれ、白のシュミーズドレスのクララと白いコスチュームの若き将校の、深海のブルーのように照らされた床でのデュエットは、心に残る美しいシーンだ。ストジェベノフの膝がジャクソンに支えられ、あたかも鳥が舞うように、しなやかな弧を描く上半身の動きから、ピュアな美しさが浮かび上がり無限の空間美を創造する。
チャイコフスキーの流麗な音楽とともに、舞台は一転して雪の精たちの群舞に変わっていく。ふわふわと柔らかそうに舞い上がる雪のように、コール・ド・バレエの流れるラインが波打つような流線型のフォルムを形成して、その中に幼いころのクララを佇ませ、時間が逆戻りしていく演出は幻想的だった。

1706ab_03.jpg photo by Daniel Boud 1706ab_04.jpg Amelia Soh & Natasha Kusen, photo by Daniel Boud

2幕の皇帝の前での劇中劇では、衣装、舞台セットを担当したクリスチャン・フレドリクソンの細部までこだわったヴィジュアルが実に効果的。贅沢な手仕事で刺繡を施した豪華な衣装はバレエ・リュスの舞台を彷彿させ、セットは崩れゆくロマノフ王朝の栄華の最後の一瞬を美しく輝かせたかのようだった。

1706ab_05.jpg Amy Harris, photo by Daniel Boud

ストジェベノフは、場面ごとに異なる多彩な表情と踊りでクララの心情を明確に描き分けた。恋人の将校とのパ・ド・ドゥでは生き生きとした愛くるしさを見せ、2幕の皇帝の前での「金平糖の精」のパ・ド・ドゥでは、ロシアのスターダンサーらしい技術的な正確さ、気品漂うエレガンスを見せた。ユニゾンの踊りでは二人の息が小気味よいほどピタリと合ったステップ、跳躍を披露して客席を沸かせ、劇中劇のこのシーンはこのバレエでは一番の喝采を浴びた。パートナーを務めたプリンス役のジャレッド・マデンは、バレエ・リュスの血脈を受けているかのように感じられた。ちなみにマデンは21回のシドニー公演中当初11回のキャスティングが発表されていた。医師・将校役で5回、劇中劇のプリンス役で6回、そのうち1日は昼にプリンス、夜は医師・将校役という驚異的な活躍だった。マカリスター芸術監督のマデンへの期待の大きさがうかがえる。筆者は観ることができなかったが、英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団のプリンシパル、ジョセフ・ケイリーが客演しており、プリンス役で4公演のキャスティングが発表されていた。

1706ab_06.jpg  Leanne Stojmenov & Artists of The Australian Ballet photo by

本公演の開幕少し前に、オーストラリア・バレエ団が定期的に配信しているメールマガジンの中に、ストジェベノフがまだ幼い彼女の2人の子どもたちと、バレエ団のスタジオで戯れている姿があった。この動画は母の日にちなんだもので、その映像を見たせいかもしれないが、ストジェベノフのクララは最愛の人の死をも乗り越えて、動乱の中、異国でバレリーナとして生きていく強さをもった女性に見えた。表情は多様性を備えて活動する21世紀の女性と重なり、今までにみたマーフィー版のどのクララとも違っていた。
物語の最後は老クララの生涯最後のカーテンコールで締めくくられる。色鮮やかな短いチュチュから伸びた脚は年齢を重ねてもバレリーナそのものだ。老クララが息を引き取るベッドには子ども時代のクララと、若きクララの三人が同時に横たわり、夢の中の喝采がクララを永遠の眠りに導いていった。強くしなやかに生きたひとりの女性の人生を祝福するように、劇場は大きな感動と拍手に包まれ幕が下りた。
(2017年5月2日  シドニーオペラハウス)

1706ab_07.jpg Amelia Soh,Leanne Stojmenov & Ai-Gul Gaisina, photo by Daniel Boud

『くるみ割り人形―クララの物語』全2幕バレエ
振付:グレアム・マーフィー  (Graeme Murphy)
音楽:ピョートル・チャイコフスキー (Piotr Ilyich Tchaikovsky)
舞台セット・衣装:クリスチャン・フレドリクソン (Kristian Fredrikson)
照明原デザイン:ジョン・ドラモンド・モンゴメリー (John Drummond Montgomery)
照明再デザイン:フランシス・クロエッセ (Francis Croese)
ニコレット・フレリオン 指揮 オーストラリアオペラ・バレエ交響楽団 (Nicolette Fraillon  conducting Australian Opera and Ballet Orchestra )

配役  (5月2日)
老クララ:アイゴール・ガイシナ (Ai-Gul Gaisina)
若き日のクララ:リアン・ストジメノフ(Leanne Stojmenov)
子どものクララ:アメリア・ソウ  (Amelia Soh)
医師・恋人  :  ケビン・ジャクソン (Kevin Jackson)
「くるみ割り人形」のプリンス:  ジャレッド・マデン(Jared Madden)
ロシア移民の友人:シェーン・キャロル (Shane Carroll)、オルガ・タマラ (Olga Tamara)、オードリー・ニコラス (Audrey Nicholls)、グレアム・ハドソン(Graeme Hudson)
パトリック・ハーディング=アーマー (Patrick Harding-Irmer)
フランコ・レオ (Franco Leo) / コリン・ピースリー(Colin Peasley)
クララの母親:ナターシャ・クーセン (Natasha Kusen)
ニコライ皇帝:ブレット・サイモン (Brett Simon)
アレクサンドラ皇后:エミー・ハリス (Amy Harris)