西脇美絵子 text by Mieko Nishiwaki
 皆さん、こんにちは!
 今回からフラメンコエッセイ「アマポーラの一撃」がスタートします。
鮮明な赤い花びらと黒いめしべの強烈なコントラスト――。私にとってアマポーラは、フラメンコの象徴です。この連載では、一筋縄ではいかないフラメンコの魅力と楽しさを、さまざまな切口で、ガツーン!とお伝えしたいと思います。


フラメンコにおける「笑い」の状況
 マリア・パヘスの「フラメンコ・リパブリック」を、先日(5月17日)見ました。いやぁ、面白かったですねぇ。何が面白いって、フラメンコではまずお目にかかれない、洗練された「笑いのセンス」が、ちりばめられた作品だったのです。
この作品は、日本では2回目の上演で、初演の時、資料用ダイジェスト版ビデオは見ていたのですが、公演時、私はスペインへ行っていて本番は見逃してたんです。この作品のユニークさは、そのダイジェスト版でも充分感じられたので、見られなかった悔しさをずっと胸にためつつ、今回見に行ったわけです。その期待は裏切られませんでした。
「フラメンコと笑い」って皆さんはピンときますか? フラメンコというと、「眉間の皺」をイメージする人が、今も多いのではありませんか? 
最近はフラメンコでもいろいろな作品が作られ、実験的な試みもたくさんおこなわれています。でも、そこで扱われる題材というのは、いまだに愛と死、血とナイフ、燃え上がる嫉妬と裏切り、といったドロドロ系がほとんどです。いえいえ、それが悪いといっているわけではありません。そういう題材は、パッショネイトなフラメンコには、そもそも合っていますから。でも、現代を生きている私たちの日常的な感覚をストレートに刺激するような、そういうアプローチがもっとあってもいいんじゃないか、とは思っていました。
「フラメンコの本質は感情表現にある」、といってもいいくらい、フラメンコは人間のあらゆる感情を肯定し、それを赤裸々に表現することを良しとするアートです。フラメンコ舞踊が、ビジュアル的な美しさよりも、踊り手の内面性が重要視されるのもその所以です。なのにフラメンコでは、喜怒哀楽の中で「楽=笑い」の感情表現が欠落しているというか、軽んじられているようなところがあります。実際、フラメンコの創作作品に、長い間喜劇はありませんでした。

それは、フラメンコが、ヒターノ(ジプソー・ロマ)の苦難に満ちた歴史、生活の中からうまれてきたものだということに、大きく関わっているといえるでしょう。彼らのフラメンコが発露する感情とは、なによりもまず、嘆きや悲しみや怒りだったでしょうから。

一方、1960年代以降のダンスや芝居の世界では、「笑い」はとても大きな位置をしめています。「笑い」は単に喜劇の中にあるのではありません。ピナ・バウシェの舞台を思い浮かべてください、赤テントから野田秀樹・三谷幸喜にいたるアングラ/小劇場系の芝居を思い返してください。彼らは、自らの哲学、思想、メッセージ――それはかなり深刻で難解だったり重かったりしますが――に笑いを織り込むことで、観客との距離を縮め、テーマを共有します。笑いがエンターテイメントの手法として作用するわけです。作品に「笑い」を持ち込むことで、観客の頭をほぐし、体をほぐし、心をほぐす、そんな効果があるように思います。少なくとも、「笑い」は20世紀後半のサブカルチャーの重要なファクターでした。

そういう「笑い」にフラメンコは、まったくアプローチしてきませんでした。20世紀後半というのは、フラメンコが多様な発展をとげはじめた時期ではありますが、舞台芸術としては、産声を上げたばかりで、未成熟な段階。フラメンコが本来得意とする激情的な感情表現の構築に大方のエネルギーが注がれ、「笑い」の感性をとりいれるという発想すらなかったように思います。フラメンコが「笑い」のセンスを持たないことは、表現媒体としてのフラメンコ舞踊の幅を限定してしまうのではないか、それは舞台芸術としての弱さなのではないかと、私は感じていたのでした。


「フラメンコ・リパブリック」に散りばめられた笑いのセンス

そんなわけで、「フラメンコ・リパブリック」でやって見せたマリア・パヘスの「笑い」への取り組みは、画期的なことでした。しかもマリアは、フラメンコの最も重要な基本原則であるコンパス(リズム)を、フラメンコのテクニックや小道具を用いて徹底的に遊ぶ、というモチーフで、この作品を作りました。「笑い」という新しい試みを徹底的にフラメンコと向き合うことと共存させながら、やってみせたのです。

舞台では、サパテアート(靴音)、パルマ(手拍子)、バストン(杖)やカスタネット、更にはアバニコ(扇子)が開閉する時の音まで総動員して、フラメンコのリズム遊びが展開されます。フラメンコならではの技を、人間の心の機微に重ねながら、時にコミカルに表現するのです。観客はフラメンコのリズム遊びの楽しさと、人間の滑稽さを同時に体験します。「クスクス」という笑い声が、客席からもれたことは、いうまでもありません。それは、フラメンコの公演会場で、私が初めて目にした、客席の反応でした。

 さて、この作品が発表されたのは、4年ほど前ですが、その後、2002年のビエナルで、ハビエル・ラトーレというフラメンコの振付家が史上初のフラメンコ喜劇作品を発表しました。フラメンコにおける「笑い」へのアプローチは、「フラメンコ・リパブリック」作品を契機に、ようやく始ったようです。

もうひとつ付け加えると、スペインには、フラメンコの祭りやステージを、パルマや歌や踊りで盛り上げるフェステーロという人たちがいて、彼らはコミカルに歌ったり踊ったりもします。漫談のようなしゃべりを入れながら踊る、コメディアンのような芸人さんもいます。フラメンコのコンサートを見たことがある人なら、プログラムの最期やアンコールの時に、ミュージシャンたちが、小粋に一節踊るのを見たことがあるでしょう。そう、フラメンコの伝統の中に、「笑い」の要素はあるのです。ただ、フラメンコの舞台作品には、これまでほとんどそういったコミカルなフラメンコ―とりわけ「洗練された笑い」―は登場しなかったということです。

さて、公演全体の満足度は?
 今回の公演では、新作「ソング・ビフォア・ウォー」も上演されました。こちらは、耳慣れたヒット曲にのせて、フラメンコが踊られる作品です。「ウォー」とはイラク戦争を意識したもので、作品の最後には、「イマジン」が使われていたりします。

 他ジャンルの音楽でフラメンコを踊る、というのは、マリアがこれまでもやってきた手法です。この作品は、それをアンソロジー風にまとめたものですが、曲と曲との間は、パルマやサパテアードをモチーフにした踊りが挟まれていて、ここでもフラメンコの伝統と革新が共存しています。
 なのに、なのに、なんです。舞台作品としての完成度という点では、この公演、疑問が残ってしまったのでした。
 まず、舞踊団員たちの踊りの粗さが目立ちました。ひとりひとり躍らせたら、きっと上手いダンサーたちです。でも、ダンサーたちの個性が作品の個性と合っていない。皆、泥臭い系のフラメンコダンサーなんですが、やはりこういう作品は、ある種の洗練を感じさせるダンサーでないと、表現しきれないのでしょう。少なくとも、自らの感情を踊る――オーソドックスなフラメンコを踊る――時とは違う、ダンサーとしての訓練が必要です。

 舞台の美術・装置が、ほとんど何もなかったのも残念でした。どちらもエンターテイメント性を全面に打ち出した作品だけに、舞台空間全体を演出することの効果は、大きいと思うのですが。
こういった作品作りにおけるツメの甘さは、フラメンコの作品では、実はほとんどいつも感じることです。一言でいってしまえば、舞台芸術としての歴史の浅さが、そのまま完成度の低さになってしまっている場合が多いのです。本来マリアはそれを一番感じさせない創り手なだけに、残念です。

 今、スペインでは、さまざま実験的作品が発表されています。若いアーティストたちは、伝統のくびきから解き放たれて、新しいこと、クリエイティブなことをやりたくてしょうがない。そんな彼らのエネルギーがひしひしと伝わってきます。でも、舞台作品として成功しているものが少ないのも事実です。アントニオ・ガデスが創ったフラメンコ史上最高の傑作「血の婚礼」や最大のヒット作「カルメン」を超える作品は、いまだ登場していません。ガデスを超えるのは、果たして誰なのか?フラメンコのエスニック性、強烈なインパクトや迫力、そういったものだけに頼らない、舞台が魔物であることを知り尽くした、大胆かつ緻密に創りあげた作品の登場が待たれます。そう遠くない日に、きっとそれは出現すると、私は睨んでいるのですが。

 

Copyright チャコット株式会社 All Rights Reserved.  
当サイトに掲載されている情報の無断転載、無断掲載、無断引用 はお断り致します。