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日本にクラシック・バレエが入ってきた頃の状況について、前号までで少し触れた。今回は、エリアナ・パヴロバについて。
エリアナの来日には、彼女がたいへん美しいロシアの亡命貴族(しかも女性3人の家族だった)だったこと、日本人には未知のバレエという芸術家だったこと、彼女は日本への亡命を希望していたのではなく、やむなく日本に定着してしまったこと、などさまざまなポイントがある。
とりわけ、美しいロシアの亡命貴族、という当時非常に珍しい際立った特徴がかえって事実関係を混乱させている面もあるかもしれない。エリアナを主演にした映画の公開やレコードの発売(これは現在でも聞くことができる)、化粧品のイメージガールに起用されたこと、あるいは「うっとりとしてみとれた」(江口博)などの証言も残されている。
ともあれ、エリアナについては種々雑多な資料が未整理のまま残されている。その中でも、エリアナを主人公とした小説が2冊、評伝的なものも数冊が今までに発行されている。
日本で暮らすことになるとは思っていなかったエリアナは、日本語をうまく使いこなすことができなかった。彼女は、亡命ロシア人との交流はあったが、周辺にロシア語を話しバレエを理解した人は、日本で暮らした間に服部智恵子一人しかいなかった、と思われる。すると、評伝や小説を書くために当時の筆者はどうやって取材したのだろうか、その辺が非常に曖昧模糊としている。(どなたかご存知の方がいらっしゃったら、ぜひともご教示いただきたいのだが)
今から考えると言葉の問題は、バレエの技術を教えるだけならそれほど支障がなかったかもしれないが、人生、とりわけ極めて波乱に富んだ過去をエリアナから直接取材することは、非常に難しかったのではないだろうか。というのも、彼女の人生についての取材は、ほとんどが彼女の死後、妹のナデジタ・パヴロバからの聞き書きに基づいているのではないか、と推測されるからである。エリアナは1941年に中国で客死しているのだが、戦後になるとロシア語を解し、バレエについての知識をもつ人たちがナデジタを取材している。
しかし、ここでまたややこしいことに、エリアナと母のナタリアと妹のナデジタについての血縁関係がはっきりしていない。
2001年にチャコットで開催した、「エリアナ・パヴロバ展」にも展示されたが、彼女の出自を証明する羊皮紙の証書や当時のパスポートなどが残されており、パヴロバ家がロシア貴族トゥマンスキーの末裔であることは間違いない。しかし、妹のナデジタは、ロシア革命の混乱の中で家族に加わった他人、とも言われる。また、母ナタリアとナデジタの容貌が似ているようにみえたり、母がエリアナに非常に厳しく妹に優しかったなどという目撃談や骨相学的見地などから、じつはエリアナに血の繋がりがない、という説もある。
仮に、ナデジタとエリアナに血縁がないとすると、ナデジタの語るエリアナの幼少時の話は間接的な伝聞ということになる。
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