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西欧で生れ、育ち、発展を遂げたクラシック・バレエが、日本に伝えられたのは、いつ頃のことだろうか。
ちなみに、西洋音楽が日本で最初に奏でられたのは、1551年山口の領主、大内義隆に宣教師フランシスコ・ザビエルが、
小型の鍵盤楽器を献上、演奏した時、と言われている。その後、西洋音楽は、宗教や軍隊、あるいは国家式典などと関連して日本に移入される。
ダンスには音楽のように定かな記録はないが、明治8年(1875年)、札幌から移転してきた女学校の開業式に、英国女教師指導によるダンスが踊られた。
女生徒たちは西洋の音楽につれて踊りを催し、『読売』は「開業式に生徒の踊りとは、東京にてもまた聞及ばぬ開業式なり」と伝えている。
そして明治44年(1911年)には、皇居のお堀端に日本初の西洋演劇場建築による帝国劇場がオープンした。
ルネッサンス様式を基調とし、舞台の幅15メートル、高さ16メートル、オーケストラ・ピットも回り舞台もあった。
内部はイタリア産の大理石が用いられ、通路や階段には深紅の絨毯が敷き詰められていた。
「国賓クラスを招待するのに相応しい大劇場」を建設することを主眼とした帝国劇場は、歌舞伎や演劇とともにオペラの上演を目指し、
『ファウスト』や山田耕筰のオラトリオ『誓ひの星』などを制作上演した。当時はほとんどがピアノ伴奏のオペラであり、
オーケストラによる本格的オペラの上演の準備のために、大正元年(1912年)、
ロンドンのヒズ・マジェスティック劇場で活躍していたイタリア人の舞踊家G.V.ローシーが招かれた。
ローシーはミラノ・スカラ座舞踊学校出身で、アンナ・パヴロワの教師として有名なエンリコ・チェケッティに学んだといわれている。
彼には、帝劇歌劇部の石井獏、小森敏、河合幾代、沢モリノが学び、後に高田雅夫、岸田辰彌、高田せい子が加わった。
当時のオペラには必ずといっていいほど、バレエの場があったから、ローシーはまずダンサーを養成するために、基礎教育(クラス)を行った。
その様子は、チェケッティばりに杖(六尺棒)をもってリズムを取りながら教え、生徒が失敗すると杖でコズいた、と伝えられている。
当時、アンナ・パヴロワやニジンスキーなどの優れたダンサーが輩出する以前のロシアでは、イタリアのダンサーが人気があり、ロシアの舞台にも盛ん出演している。
プティパの『白鳥の湖』の初演を踊ったピエリーナ・レニャーニは有名な32回のフェッテを初めて披露したし、
『眠れる森の美女』の初演もカルロッタ・ブリアンツァというイタリアのバレリーナだった。
ただ、当時のイタリアのバレエは、マンゾッティの『エクセルシオール』に代表されるようなスペクタクルを追求する作品が全盛だった。
そのためか、その頃のイタリアのバレエはテクニックは優れていたが、ポエムを失い、優れた作品を作り出すことはできなかった、といわれることが多い。
一方、当時のパリ・オペラ座は、1875年に新オペラ座の柿落としで、ミンクスとドリーブの音楽による『泉』というバレエが上演されたが、
翌76年に上演された『シルヴィア』以後、グランド・バレエはしだいに上演されなくなった。
バレリーナではイタリア人のカルロッタ・ザンベリが有名だったが、今日でも知られる作品は『ナムーナ』くらいだろうか。
1894年にはオペラ座の大道具制作所が火災にあうなどあまりいいことはなく、パトロンを探す目的でバレリーナになったり、
舞台裏で、パトロンとバレリーナの駆け引きが行われたり、という有り様で、バレエは衰退に向かっていたのである。
その後、ディアギレフのバレエ・リュスがパリにやってきて一大センセーションを巻き起こすが、
1918年6月10日から11月3日までは世界大戦のために、オペラ座は一次閉鎖の憂き目をみることになる。
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