本文 関口紘一

vol.2 --- 日本のバレエのフロンティア、橘秋子と牧幹夫

橘秋子(本名、福田サク)は、東京にも欧米のような本格的なオペラハウスが必要だ、という気運が実を結び、帝国劇場が着工された1907年(明治40年)、宇都宮市宿郷町に生まれた。
当時の宇都宮は、橘秋子の「少女のころ」(「Ballet Friend」1963年5月号)にも描写されているような、のんびりとした田園風景が広がっていた。橘秋子は、末娘として家族にも周辺の人々にも愛されて、明るく健やかに成長した。
1921年、栃木県女子師範学校本科に入学。女子師範学校は、国民の教育のために必要な女性教員を養成する学校で、全寮制による良妻賢母主義の教育が行われていた。女子師範学校には、およそ15の科目があり、1週34時間くらいの授業が行われていた。例えば、今日の運動会にあたる体操演習会の種目には、コザックダンスやクラップダンスなどもあった。
寮生活は厳しく制限され、夏は5時起床、朝礼、朝食、授業、入浴と続き、6時門限、夕食、9時就寝、10時消灯、となっている。門限に遅れたり、外出途中で規定の服装を着替えたことが発覚したりすると厳しく罰せられた。(「宇都宮大学教育学部百五十年史」)
当時のヨーロッパでは、ディアギレフ率いるバレエ・リュスや、アンナ・パヴロワ、イサドラ・ダンカンなどの舞踊が新しい時代を告げる芸術のように、華々しくジャーナリズムを賑わせていた。そうした斬新な時代を表す現象は、山田耕筰などの帰朝者によっていち早く伝えられていたし、国内では石井漠、高田雅夫、原せい子、エリアナ・パブロワなどが盛んに公演した。これらの公演はかなりの集客力があった。また、1922年にはアンナ・パヴロワが来日して、帝国劇場他で公演を行った。

女子師範学校時代の橘秋子は、既に舞踊というものをかなり強く意識いた。例えば、橘秋子記念財団会報「日本のバレエ」には、寄宿舎の部屋の裸電球を傾け、身体を様々に動かして微妙なシルエットを障子に映し、その効果を友人たちとともに語り合った、などというエピソードが紹介されている。また、橘秋子の女子師範学校の卒業論文は「舞踊」だった。

1926年、女子師範学校を卒業した橘秋子は、栃木県国分寺村小金井の尋常高等小学校に教師として赴任した。橘は宇都宮から東北本線を使って通勤したのだが、当時はモンペなどの地味な装いが一般的だった中に、一際モダンで華やかな衣裳で乗車し、教え子はもちろん、周辺の人々にも鮮烈な印象を与えた。
橘はダンス、唱歌、和歌などを教えた。前述の「日本のバレエ」には、「夕べの食卓で先生の話題がでなかったことはなかった」とか、放課後にはハーモニカやオルガンなどを弾き、生徒たちと歌や踊りなどを楽しんだなどといった、教え子たちの思い出を拾遺して紹介している。読むと、その頃の進取の気風に溢れた少女たちの、胸の熱くなるような憧憬が感じられてくる。

橘秋子の清新で魅力的な雰囲気は、多くの男性の心をときめかせた。その一人は、村長の息子の陸軍大尉で、長身に長靴にサーベルを下げていたそうだが、恋を実らせることはできなかった。もう一人は、両親もゆくゆくは結婚することをみとめた学生だったが、卒業後に神戸の勤務となった。やがて橘のダンスへの激しい情熱がだんだんと具体化してゆき、こちらも結婚には至らなかったが、その熱愛ぶりは、「舞踊藝術」(1936年新年號「私の初恋 まだ癒えぬ胸のいたで」)に吐露されている。

そして橘秋子は牧幹夫(本名、北沢牧三郎)と出会った。
牧幹夫は、幼時に宇都宮の四條町教会のフライ宣教師夫妻の養子となり、英語を日常語として育てられた。(ちなみに、夫人のスゼイ・フライ宣教師は、1907年に宇都宮クリスチャン女学校を設立し、女性教育に貢献した)
牧幹夫については、あまり資料が残されていないが、雑誌「舞踊藝術」の37年8月號から38年4月號にかけていくつかの文章を発表している。
「舞踊藝術」は1935年に創刊され、日舞、洋舞を問わず、日本の舞踊が大衆に受け入れられて発展することを目指した月刊誌。折口信夫の愛弟子、石井順三が中心となって編集にあたっている。創刊号はB5判平綴じで表紙は岩田専太郎のカラー絵。河竹繁俊、尾上菊五郎、長谷川伸、高田せい子、楳茂都陸平、藤蔭静枝、益田隆、水谷八重子、白井鉄造、石井漠、葦原英了、北原白秋ほかの錚々たる執筆陣で、崔承喜、水の江瀧子、石井みどり、寒水多久茂ほかがグラビアを飾っている。
舞踊論や日本舞踊、レビュー、ダンス、バレエの舞台評や紹介などが主要な記事で、商業主義的誌面ではないが、ゴシップ風の記事も掲載して、広く読者の獲得を目論んでいる。なかなか意欲的な舞踊雑誌である。
牧幹夫は、この「舞踊藝術」にワガノワの「クラシック舞踊の基本」を4回にわたって翻訳紹介したのを始め、「音楽と舞踊と振付の関係」2回、「舞踊に於ける「エラン」とは何か」、「タップ百年史」3回、「舞踊映画回顧」、「世界舞踊通信」などを執筆している。幼時から英語に親しんだ生活を送ってきたためか、文章表現にいささか分かりにくい部分もあるが、世界の舞踊の最先端に迫ろうとする積極的な問題意識と、舞踊に関する該博な知識が現れた文章である。中でも1934年刊行されたワガノワの『クラシック舞踊の基礎』を、クラシック・バレエの体系的なメソッド確立を重視して、世界的にもかなり早い時期と思われる37年に紹介した功績は大きい。

一方、橘秋子は1929年には教師を辞め、翌年には両親の制止を振り切り、鎌倉の七里ヶ浜のエリアナ・パヴロバの下に入門し内弟子となった。ところが入門した翌日、「軽業に売られる」のではないかと本気で心配した父の意向を受けて、宇都宮から母と姉が七里ヶ浜に迎えにやってくる。しかし橘の意志は非常に固く、結局、父もみとめざるをえなかった。
当時、パヴロバ・バレエ団は盛んに地方巡業を行っていて、橘は31年には台湾公演に参加し、その経験に基づいてデビュー作となる『生蕃の印象』を発表した。また、当時やはり内弟子だった東勇作と踊った九州の公演を観ていた、貝谷八百子がパヴロバ・バレエ団に入団した。橘秋子は1933年にはパヴロバの下を辞し、橘秋子バレエ研究所を杉並に開設している。

この間に、橘秋子と牧幹夫は結婚し、牧阿佐美が誕生した。
34年の第1回橘秋子バレエ研究所発表会では、牧幹夫は『水仙』『信号』という作品を橘とデュエットで踊り、彼が振付けた『火祭の踊』を自身で踊った。
さらに牧幹夫は、橘秋子バレエ研究所第2回発表会では、橘とデュエットで『こわれた人形』を踊り、36年の第3回発表会では『花の円舞曲』をやはり橘とデュットで踊った。第4回の発表会では牧阿佐美が初舞台を踏んでいるが、ここでも『こわれた人形』がプログラムに入っている。
第1回の発表会は「これだけの実のある初舞台をやった人はあまりなかろう」(永田龍雄)と好評で、牧幹夫の『火祭の踊』も音楽解釈に深みがあったという評がなされている。

しかし牧幹夫は、1938年4月29日横浜港からインドに渡ることになり、18日に牧幹夫渡印告別舞踊会が日本青年館で開催された。
「・・・・船の出帆の汽笛の音に、見送りにきたバレエ団の若い人々は声をあげて泣きましたが、私は泣けませんでした。ただ岸壁を離れていく船体をぼんやりと眺めておりましたが、ふと、これから長い間、ひとりで生きていかねばならないのだと、気づいたとき、胸をしめつけられる様な孤独感が身体全体を襲いました。
遠い見知らぬ国インド、異常な風土の国インド、そしてカルカッタの郊外サンテイニケタン、インドの詩聖タゴールの大学という以外は、何もわからない、遠い国インドに、インド哲学・インド美術・インド音楽・インド舞踊といった最も古い東洋に肌でもって触れたいという彼の願望に、あこがれの気持さえもって、タゴールの大学にゆくことに賛成したのでした。・・・・」(橘バレエ学校刊『橘秋子』所載「牧幹夫と私」より)
この頃、インドの文化は、「アジアはひとつである。」という有名な言葉で始まる岡倉天心の英文による著書『東洋の理想』(1903年ロンドンで出版、邦訳は35年)が欧米で話題となって、日本でも注目をされた。また、テイコ・イトウは、日本の文化を知るためには我々の祖先を育んだ国をの文化を知る必要がある、としてインドなどの東洋諸国を回り、東洋舞踊の発表会を開催して話題を集めた。こうしたことが、あるいは牧幹夫の思い描く芸術に刺激を与えたかもしれない。
いずれにせよ牧幹夫は、橘秋子バレエ研究所設立からわずか5年あまり舞踊活動を行った後、インドに向かった。その時、牧阿佐美は未だ4歳だった。
当初は半年で帰国する予定だったらしく、短い旅の間に出来るだけ多くの事を吸収しようとしたと思われる。我妻和男著『タゴール』には、1939年に牧幹夫がタゴール大学に来て、たちまちのうちにタゴール舞踊を習得した、という記述がなされている。
しかし、独立戦争や太平洋戦争によってインドの混乱が続き、帰国のチャンスを失ってしまったようだ。その後、大野弘史、和井内恭子などの舞踊家が渡印した際には、現地で牧幹夫にたいへんに世話になったこともあったそうだ。また、ベンガル語なども話す天才的な語学力を生かして、ムンバイ(ボンベイ)のジェトロなどで仕事をした記録は残っているが、インドでの詳細な活動は判っていない。
そして牧幹夫が帰国したのは故国を離れてから33年後、お骨となって愛娘、牧阿佐美の胸に抱かれていた。

橘秋子は、単身エリアナ・パヴロバの下に飛び込んで内弟子としてバレエを学び、実際の舞踊創作の現場を手伝い、さらに舞台経験も重ねた。その上に、牧幹夫の広汎で尖鋭な舞踊の知識を吸収して、舞踊家としてさらに飛躍的に成長した。
戦争中は辛酸を嘗めたが、終戦後は<戦争に負けたからバレエで勝つ>という決意を胸に秘めて、アレキサンドラ・ダニロワやイゴール・シュベッツォフといった世界的舞踊家を招聘して大いに学んだ。そして牧阿佐美を始めとして大原永子、森下洋子などの優れた舞踊家を育てた。創作では、『飛鳥物語』『角兵衛獅子』『戦国時代』などの日本を題材としたグランド・バレエ3部作や『第五シンフォニー・運命』『未完成交響曲』などのシンフォニック・バレエを完成させた。こうした功績は、<横のものを縦にすることで事足れり>とする風潮の日本のバレエ界では、誇るべきものであり、バレエ研究者、関係者は刮目して学ぶべきだろう。

そして橘秋子の薫陶を受けた牧阿佐美は、新国立劇場バレエ団を芸術監督として、当代一流、世界のどこのオペラハウスに出してもひけをとらない素晴らしいバレエ団に仕上げた。牧阿佐美の演出・振付による新国立劇場バレエ団の『ラ・バヤデール』は、インド文化の悠久の美が映っているような類い希な美しい舞台だった。この『ラ・バヤデール』の美術は、牧幹夫がインド時代に蒐集していた資料を参考にしてデザインされた、と聞く。
牧阿佐美が舞踊家として活動している間、彼女の脳裡に印された父、幹夫が生きたインドのイメージは、見事に成熟し、『ラ・バヤデール』の素晴らしい舞台に実を結んだ、そう言ってもいいのではないだろうか。
私たちは、日本のバレエの草創期になされた甚大な努力が、様々な形で結実していることを決して見逃してはならない。
(2008年7月9日〜7月13日、栃木県総合文化センター 第1ギャラリー開催 日本のバレエのフロンティア「橘秋子」展パンフレットに掲載の「宇都宮で生まれ、やがて花開いた日本のバレエ」に加筆訂正)