森 瑠依子

バレエの栄光の歴史がきらめく
「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて その4

<バレエ・リュスを彩ったダンサーの肖像3>

今回はバレエ・リュス後期のスターたちを紹介する。この時期はニジンスカ、一度、退団して復帰したマシーン、ソヴィエトから来たばかりのバランシンと、すぐれた振付家が競うように次々と新作を発表していたうえに、フォーキンらによる旧作も定番としてレパートリーに残っており、幅広い作品が新旧のスターたちによって踊られていた。
1929年にディアギレフが死去してバレエ・リュスが解散すると、彼らはロシアで培われたクラシック・バレエの伝統をイギリス、フランス、アメリカなどにもたらし、それぞれの国の個性と融合させて、英国ロイヤル・バレエ、イングリッシュ・ナショナル・バレエ、ニューヨーク・シティ・バレエの基を築き、パリ・オペラ座バレエを復興させた。またバレエ・リュス・ド・モンテカルロ、バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)などに参加してバレエ・リュスのレパートリーを披露・指導したことから、世界各地のバレエ団に『レ・シルフィード』『ばらの精』『ペトルーシュカ』といったバレエ・リュスの名作が伝わっている。バレエ・リュスのダンサーたちのバレエ芸術への貢献は計り知れないほど大きい。

アントン・ドーリン(1904-1983)
バレエ・リュスの男性スターで唯一のイギリス人。初期バレエ・リュスに参加したマリインスキー・バレエ出身のセラフィマ・アスタフィエワの弟子で、師の推薦でバレエ・リュスに入団した。容姿端麗で身体能力がすぐれており、ニジンスカは『青い列車』(1924年初演)でドーリンの才能を活かしたアクロバティックな振付を行った。振付家としては1941年初演の『パ・ド・カトル』で知られている。
バレエ・リュス解散後は、カマルゴ協会(英国ロイヤル・バレエに発展)の創立メンバーとなり、イギリス・バレエの発展に貢献した。テクニシャンのダンサーで、パートナーとしても人気があり、アリシア・マルコワとのコンビが有名。イングリッシュ・ナショナル・バレエはドーリンが1935年にマルコワと結成したマルコワ・ドーリン・バレエを起源としている。

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1929年5月、パリのサラ・ベルナール劇場の公演プログラムより。このシーズンにドーリンは『放蕩息子』、『ペトルーシュカ』(ムーア人役)、『鋼鉄の踊り』、『舞踏会』など、多数の作品に出演した。


オリガ・スペシフツェワ(1895-1991)
ペテルブルグで絶大な人気を誇った、マリインスキー・バレエのスター。バレエ・リュスには1916〜17年のアメリカ巡業で初参加し、1921年の『眠り姫』の初日にオーロラ姫を演じた。バレエ・リュスではバランシン振付『牝猫』(1927年)、『白鳥の湖』などを踊っている。
1924年にロシアを離れ、パリ・オペラ座のエトワールとなって『ジゼル』を最大の当たり役とする。マリインスキーの伝統を受け継ぐ正統派のバレリーナで、エンリコ・チェケッティの「ひとつのリンゴの半分がパヴロワでもう半分がスペシフツェワ」という言葉に、ディアギレフが「自分にとってはそのうち太陽に当たった側がスペシフツェワだ」と言ったという。1939年に引退してニューヨークでバレエ・シアター(現ABT)の顧問になるが、精神を病んで長く療養生活を送った。

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(左)マリインスキー・バレエ時代。
(右)マリインスキー・バレエ時代の『エスメラルダ』。


セルジュ・リファール(1905-1986)
バレエ・リュス最後の男性スター。ニジンスカがキエフで教えていた生徒のひとりで、1923年にバレエ・リュスにデビューした。ディアギレフに寵愛され、着実に力を付けてニジンスカ、マシーン、バランシンそれぞれの新作に主演。特にバランシン振付の『牝猫』『ミューズを導くアポロ』『放蕩息子』の主役で高い評価を受けた。1928年にスイスのモントルーで『レ・シルフィード』を踊る短い映像が残っている。
バレエ・リュス解散後、パリ・オペラ座バレエのエトワール、振付家、芸術監督となって、長く停滞していたオペラ座のバレエを再興させた。振付の代表作は『白の組曲』(1943年)。1952年にリセット・ダルソンヴァル、リアンヌ・ダイデ、アレクサンドル・カリウジニーの3人とともに来日公演を行い、戦後の海外バレエ団来日の先陣を切っている。多芸多才の社交家で世間の注目を浴びることも多く、1958年にバレエの上演をめぐってクエバス侯爵と決闘を行った様子がニュースで報道された。フランスの有名な競走馬リファールの名は彼から採られている。

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(左)イソップの寓話を原作とした『牝猫』の舞台写真。構成主義の美術家のガボとペヴスナーの兄弟がデザインした装置と衣装の一部にセルロイドが使われた。リファールはこのバレエで大成功を収めている。
(右)サイン入りポートレート。パリ、1927年と記されている。


ジョージ・バランシン(1904-1983)
バレエ・リュス最後の振付家で、20世紀から現代までの最も重要な振付家のひとりでもある。マリインスキー・バレエ(当時はGATOB)で踊りつつ「モロドイ(若い)・バレエ」を結成して斬新な作品を発表し、人気を集めていた。1924年に同僚らとロシア革命後のソヴィエトを出て、バレエ・リュスに入団。『ナイチンゲールの歌』(1925年)、『ネプチューンの勝利』(1926年)、『牝猫』(1927年)、『ミューズを導くアポロ』(1928年)、『放蕩息子』『舞踏会』(1929年)と、次々と振付作品を発表し、ディアギレフの信頼も厚かった。
1934年にリンカーン・カーステインに誘われてアメリカに渡るとスクール・オブ・アメリカン・バレエ(ニューヨーク・シティ・バレエに発展)を創設し、アメリカの新しいバレエを育てた。バランシンの父と弟は作曲家で、彼自身も音楽の才能に恵まれていた。バレエ・リュス時代に始まったストラヴィンスキーとの共作からは数々の傑作が生まれている。
『セレナーデ』(1934年)、『水晶宮(シンフォニー・イン・C)』『テーマとヴァリエーション』(1947年)、『ジュエルズ』(1967年)、『フー・ケアーズ』(1970年)など、多くのバランシンの作品が世界的なレパートリーとして定着している。

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(左)1925年6月、パリのゲテ・リリック座での公演プログラムより、バランシンの珍しい舞台写真。右はヴェラ・ネムチノワ。
(右)1926年のサイン入りポートレート。


アレクサンドラ・ダニロワ(1903-1997)
バレエ・リュス末期のスター。マリインスキー・バレエ(GATOB)の若手人気ダンサーで、モロドイ・バレエにも参加し、バランシンとともにバレエ・リュスに入団した。『ミューズを導くアポロ』『舞踏会』などの新作も『カルナヴァル』『オーロラの結婚』などの旧作も幅広くレパートリーとし、マリインスキー・バレエの伝統にバレエ・リュスの現代性を融合させた踊り、明るくエレガントで生き生きとした個性で人気を集めた。
バレエ・リュス解散後は主にバレエ・リュス・ド・モンテカルロで踊り、数々のバレエ団に客演した。1950年代に3回、および1981年に来日している。『白鳥の湖』、『ジゼル』のミルタ、『コッペリア』のスワニルダ、『パリの歓び』の手袋売りの娘などが当たり役。引退後は長くスクール・オブ・アメリカン・バレエを指導した。牧阿佐美の恩師としても知られる。

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(左)バレエ・リュス・ド・モンテカルロ時代の『白鳥の湖』。
(右)1929年5月、パリのサラ・ベルナール劇場での公演プログラムより。このシーズンにダニロワは『舞踏会』に出演したほか、ソヴィエトの工場の機械を題材にした『鋼鉄の踊り』でドーリンと踊っている。


アリシア・マルコワ(1910-2004)
バレエ・リュスで最年少のプリンシパルで、14歳で入団した。ドーリンと同様にアスタフィエワの弟子でイギリス人。バレエ・リュスでは『ナイチンゲールの歌』『牝猫』のタイトルロール、『オーロラの結婚』の赤ずきんなどを演じた。
バレエ・リュスの解散後は、ロンドンでバレエ・クラブ(後のバレエ・ランベール)、カマルゴ協会、ヴィク=ウェルズ・バレエ(後の英国ロイヤル・バレエ)などに出演し、フレデリック・アシュトン、アントニー・チューダー、ニネット・ド・ヴァロワら、後にイギリスを代表する振付家となる面々の初期作品を踊る。1935年にバレエ・リュスの同僚アントン・ドーリンと、ツアーカンパニーであるマルコワ・ドーリン・バレエを結成し、世界的に活躍。ロマンティックな雰囲気をもつクラシカルなバレリーナで『ジゼル』では並ぶ者がないと言われた。また、イギリス人で初めて『ジゼル』と全幕の『白鳥の湖』で主演したバレリーナでもある。

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(左)1928~29年のパリ・オペラ座公演プログラムより『牝猫』。女神の力で娘に変身した猫の役は、マルコワの当たり役だった。
(右)アントン・ドーリンとの『レ・シルフィード』。

写真提供:兵庫県立芸術文化センター 薄井憲二バレエ・コレクション