荒部 好

『闘う白鳥』

山下健二/訳
  ロシアを代表する世界的バレリーナとして、波乱に富んだ20世紀の舞台を踊り続けてきた名花マ イヤ・プリセツカヤのずっしりと読みごたえのある自伝。表紙には、プリセツカヤがアンナ・パヴ ロワにつづいてこの名作の世界を代表する踊り手と認められた『瀕死の白鳥』の、見返しには、ベ ジャールが彼女のために振付けた傑作『イサドラ』の写真をあしらった、なかなかシックなブック デザインである。

  プリセツカヤは冒頭で、幼い頃のある夏の日、モスクワ郊外の別荘の附近で、アンナ・パヴロワ のパートナーだったミハイル・モルドキンの茫々と雑草の生い茂る別荘に遭遇し、バレエダンサーと しての天の啓示を受けた、と記している。しかし彼女の母は女優だったし、叔父はアサフ・メッセ レル、叔母はスラミフィ・メッセレルで、ともに舞踊史に名を残す有名なボリショイ劇場の踊り手。 さらにいえば、振付家のアザリー・プリセツキは弟、夫は著名なロシアの現代音楽家ロデオン・シェ チェドリンである。彼女は、舞台の主役になるべくして生まれた、とも言えそうな家系に生を受けているのである。

  またプリセツカヤは、クラシック・バレエの教育法を確立したアグリッピーナ・ワガノワに短い間 ながら薫陶を受けており、彼女の教えに深く影響されたことを書き綴っていて、たいへん興味深いも のがある。ほかにもラヴロフスキー、ヤコブソン、ベジャール、ローラン・プティなどが登場し、プ リセツカヤがあのバレエ・リュスに影響を受けた人々の次の世代に属するバレエダンサーであることが理解できる。

  そして、一時は西側のスパイ容疑をかけられて、出国が認められず苦労を味わったこともある彼女 は、共産党の一部の欺瞞、とりわけスターリン主義の暗部を、本書で厳しく告発している。
  夫のシェチェドリンを変わらず深く愛し、時によってはいまでも舞台にたってその美しい舞い姿 を見せる彼女の芸術家としての半生と愛すべき人間性を、あますところなく描いた意義深い一冊である。


「闘う白鳥 マイヤ・プリセツカヤ自伝 」
著者: マイヤ・プリセツカヤ
訳  : 山下健二
発行: 文藝春秋
価格: \3,592(税抜)