荒部 好

『黒いヴィーナス ジョセフィン・ベーカー』

猪俣良樹・著
 1913年5月、柿落とし直後のパリのシャンゼリゼ劇場でディアギレフのバレエ・リュスが、ストラヴィンスキー曲、ニジンスキー振付の『春の祭典』を上演して、大騒動を起した。その12年後の1925年10月、同じシャンゼリゼ劇場で、今度は25名の黒人による「ルヴェ.ネーグル」の伝説的な舞台が初日の幕を開け、またも、賛否両論の大騒ぎになった。
 そのショーで注目を集めたのは、19歳になったばかりの、<チョコレート色の不良少女>ジョセフィン・ベイカーだった。著者は、彼女が熱狂的に迎え入れられた<狂瀾の二十年代>のパリを様々な角度から呼び起している。さすがに、パリの時評はその雰囲気を鮮やかに伝えているものが多い。中でも、ディアギレフやダンカンの時代を生き、サンクトペテルブルクからパリに移って舞踊評論に健筆をふるったアンドレ・ルヴァンソンの文章を、ちょっと長いが孫引きさせてもらおう。
「ミス・ジョセフィン・ベイカーの登場は舞台の全てを激変させたように見える。すなわち彼女の猛烈なグラインド、大胆この上ない開けっ広げの姿態、疾走する動きなどが、舞台にリズムの奔流をもたらしたのだ。彼女は魔法にかかったドラマーや心酔しきったサックス奏者に、わざとバランスの取れないブルースの演奏を指示しているかのようだ。このブルースと来たら、規則正しい音律を自由自在なシンコペーションで引き千切ってしまっているのだから。この音楽はダンスから生まれる。それにしても何というダンスだ!」
「・・・我々が目の当たりに観ているはずのそれは、もはや滑稽な踊り子ではない。……それはボードレールが取り憑かれていた黒いヴィーナスそのものなのだ」
 以来、「黒いヴィーナス」は、ジョセフィン・ベイカーの宣伝文句となったという。
 さらに、ジョセフィン・ベイカーは、パリのミュージック・ホールの草分けフォリ・ベルジェールに、「バナナ・スカート」を纏って登場。熱狂は止まるところを知らない。
「…彼女はあらゆる種類の踊りを憑かれたように踊りまくる。彼女の猛烈な腰の動きに連れて、淫らに先端を反っくり返された十六本のバナナは、蠅を追い払う牛の尻尾さながら、前後左右に歓喜の痙攣を繰り返す…」
 パリの狂瀾の二十年代は、爛熟したヨーロッパ文明の坩堝にアフリカの人類の原初の魂が投げ込まれて、痛切な化学反応を起したような、特別な時代だったのだろうか。本書は、パリを席巻した「黒いヴィーナス」ジョセフィン.ベイカーを中心に、ほとんど分析されていなかった膨大な資料を駆使して、人間の生命のエネルギーが暴発する姿を浮き彫りにしている。



『黒いヴィーナス ジョセフィン・ベーカー』狂瀾の1920年代、パリ
猪俣良樹・著
青土社刊
本体1,995円 (本体価格1,900円)