(荒部 好)

『倍音--音・ことば・身体の文化誌』

中村 明一:著
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著者の中村明一は、作曲家、尺八演奏家だが、大学は工学部応用化学科で量子化学を専攻している。尺八を学びつつアメリカのバークリー音楽大学でジャズ理論を修得している。ロンドンのクイーンエリザベスホールやニューヨークのリンカーンセンター、ブルーノートほかのそうそうたる劇場へも出演しているというから、世の中には才能に恵まれている人がいるものである。そしてこの本の内容も凄い。
この分野のことにはまったく無知であり、どのような研究が進められているのか何一つ知らないのだが、常々、「音の魔力」について漠然とした畏敬の念を抱いていた。
といってもベルギーのブルージュやナミュールに行った時に、お伽の国ような街に丘の上の教会から鳴り響くカリヨンの音に聞き惚れた。幼い頃からこの環境でカリヨンの音を聴きながら育ったら、絶品のチョコレートを作るパティシエになれたかもしれないとか。サンクトぺテルブルクの貴族の文化を優しく包むような美しい佇まいを見た時には、なるほどチャイコフスキーのメロディはこの街の雰囲気が彼に作らせたのだ、などと他愛ない妄想を浮かべていた。
一方、『倍音』の著者はおそらくは応用化学で修得したと思われる鮮やかな分析力を駆使して、音というものを「基音」「整数次倍音」「非整数次倍音」として捉え、実際、私たちが接することの多い歌手の声を分析している。
例えば、モノマネ番組で芸人が「森進一です」というと、いっせいに会場から笑いが起る。
いったい何がおかしいのだろうか、と筆者は言う。その秘密は不世出とも言われる森進一の声にあるという。その他、美空ひばりや都はるみからEXILEなどの声について論じている。さらに日本人と欧米人の音を受信する脳の違いに言及。日本という環境の中で、音の文化をどのように発達させてきたか、分析している。そして尺八などの日本の伝統音楽と、譜面によって音を捉えて膨大な音楽をつくっきた西洋の音楽との根本的な違いを明らかにしている。
この一冊は、私たちか日本の伝統音楽をどれほど省みないできたか、そのことを如実に教えてくれる。

『倍音』
中村 明一:著
春秋社 刊 定価(本体1800円+税)