創立60周年を迎えた松山バレエ団の新『白鳥の湖』
松山バレエ団が、新『白鳥の湖』公演をNHKホールで行った。創立60周年の公演ということもあってか、ロビーでは、創立者の松山樹子の舞台映像が放映されたり、松山バレエ団の60年史の年表が掲示されたりしていた。
松山樹子の映像は、『白毛女』『バフチサライの泉』『金鶏』などとともに『祇園祭』など日本の題材を扱った創作バレエもあり、たいへんに興味深かった。この松山バレエ団の伝統は、今日まで引き継がれてきている。
清水哲太郎版の新『白鳥の湖』は、この物語の歴史的な時代背景が具体的に描き込まれていることが特徴。
特に、通常、第3幕は単なるデヴェルテスマンが踊られるが、清水哲太郎版では、ジークフリート王子の花嫁候補たちはそれぞれの国のお付きの者を従えて登場し、彼女たち自らがソロを含むヴァリエーションを踊る。花嫁候補の国は、イングランド、東方のスラブの国、フランス、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと想定されている。
ロットバルトは、ジークフリートの玉座を狙う野心を秘めた貴族で、実際に、魔術的な策謀を弄して、即位したばかりのジークフリートの王冠を簒奪するところまで至る。しかし、ロットバルトの陰謀は、ジークフリートとオデットの絶対的な愛の無垢の力によって元の鞘に収まる。
最後は、ロットバルトとジークフリート、オデットの凄絶な戦いが繰り広げられるのだが、<ロマンティックな物語>を象徴する湖は見えない。
森下洋子のオデット、オディールは見事。細部に至るまで気持ちがこもっており、終始、余裕を保った踊りだった。
(1月24日、NHKホール)
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| 森下洋子、清水哲太郎 |
森下洋子、清水哲太郎 |
谷桃子バレエ団のメッセレル振付、望月則彦再演出『ラ・バヤデール』
1981年に日本で初演されたスラミフ・メッセレル振付・演出『ラ・バヤデール』を望月則彦が再演出したヴァージョンが、2006年に続いて再演された。
良く知られるように『ラ・バヤデール』は、1877年にプティパにより初演された5幕7場の超大作バレエ。その後、様々に改訂されてきたが、概ね、最後の神殿が崩れ落ちるシーンを削除するかどうか、がポイントとなっている。メッセレルのヴァージョンは、ゴルスキー版に基づくということだが、3幕の幻影の場で幕を下ろしている。
その幻影の場の演出はじつに素晴らしい。遥か雪を頂くヒマラヤの山並みを背景に、純白のチュチュを纏った精霊がシンプルなアラベスク・パンシェを繰り返しつつ降りてくる情景は、霊界を示唆する宇宙的な感覚を鮮やかに表している。
打ちひしがれてアヘンを吸ったソロルは、幻覚の中に、愛していながら見殺しにしたニキヤの精霊と踊り、自ら精霊たちに加わる、という終幕になっている。
ソロルは斎藤拓が扮していたが、感情を胸にたたみこんだ端正な踊りを見せた。
ニキヤの佐々木和葉は、終始落ち着いた踊りで明快に気持ちを表し、清潔感を感じさせるいい踊り。谷桃子バレエ団のコンビらしい息のあったパートナーシップが、観ていて気持ちのいい舞台を作っていた。
4幕構成の場合は、神殿で執り行われるソロルとガムザッティの結婚式に、再びニキヤの霊が現れ、天罰によって神殿が崩れ落ち、神の刻印が示されて幕が降りる。
ニキヤの霊が二回も現れるという4幕構成は物語の展開上、いささか難がある。ただ、苦悩したソロルがニキヤの霊に救われるという3幕構成も、大作のエンディングとしては物足りない気がする。
金の仏像の踊りも、神の視線を感じさせる伏線とするか、ニキヤの心理的な影像とみるか、それぞれのヴァージョンによって捉え方が変わってくるかもしれない。
インドを舞台に、フランス人のプティパがロシアのバレエ団で創ったバレエを、インドの文化に影響を受けて独自の文化を育んだ日本のバレエ団が上演した。バレエ芸術自体が西欧文化が創ったものであり、それを受容し、こうした大作を上演するということは、様々の努力と軋轢が生じただろう、と容易に推測できる。
そしてまたそこに、多様な解釈を可能にする、古典名作バレエの懐の深さがある。
(2月8日、東京文化会館)
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| 朝枝めぐみ、齊藤拓 |
佐々木和葉、齊藤拓 |
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| 永橋あゆみ、今井智也 |
樋口みのり、赤城圭 |
バットシェバ舞踊団の『テロファーザ』日本初演
イスラエルを代表するというより、世界的に活躍するバットシェバ舞踊団が、姉妹カンパニーのバットシェバ・アンサンブルとともに11年ぶりに来日し、2005年初演の『テロファーザ』を上演した。
舞台背景に、4台の巨大スクリーンが吊るされ、それぞれの下にダンサーが一人ずつ立っていてその顔のアップが、リアルタイムで映し出されている。ダンサーが踊りに参加するため移動すると、次のダンサーが控えに入って映る。それぞれのダンサーの動きもタイミングも異なるが、次から次へと入れ代わりが不規則に繰り返されていく。
観客は、全体を観るべきか、個々のダンサーに注目するのか、あるいは出と入りの法則を把握しようとするのか、戸惑わされるオープニング。
「私は、観客がどこに注意をむけたらよいか分からないような場所が好きだ。私は、観客の選択にゆだね、すべてを包括することの出来ない個々の瞬間を撒き散らす。観るという私たちの経験は、すべての要素を一度に理解できるということは関係ない」つまり、すべてを観る、とは<幻影>に過ぎない、とバットシェバがプログラムで言っている。
そうした趣旨を反映したダンスが始まった。
リズムに合わせた歯切れのいい上半身の動きを、ステップを踏みながら変幻する群舞。スリムにシェイプアップされたダンサーの集団が、自在に描き出す流れが巧みに構成されている。
音楽はロックだが、時折、ハイパーなサウンドが鳴って舞台を盛り上げる。
リズムと動きの迷宮に迷い込んだ観客は、「どこを観るべきか」といった当初の疑問は忘れて、自然に身体が音楽に反応しているかのよう。
後半になると、カメラはソロを踊るダンサーを囲み、4台の巨大スクリーンに四方から映す。ソロのダンサーの回りをみんなが囲み、次々と交代する。このフラメンコなどでよく見受けるシーンは、ダンスならではの躍動感あふれるコミュニケーションがありおもしろかった。一人の黒人ダンサーが鋭い感覚で踊っていて、もっともっと踊ってもらいたかった。
最後は、観客も一緒に踊りましょう、という流行の仕掛けだったが、ロックコンサート的な壮快な気分を味わった舞台だった。
(2月2日、神奈川県民ホール)
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