東京シティ・バレエ団の石田種生振付『白鳥の湖』
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| 橘るみ・小林洋壱 |
東京シティ・バレエ団の石田種生版の『白鳥の湖』が再演された。今回は、オデットとオディールを別々のダンサーが踊る公演と同じダンサーが踊る公演が、それぞれ1回ずつ行われた。
オデットを関本美奈、オディールを橘るみが踊った舞台を観た。ジークフリートは小林洋壱、ロートバルトは佐藤雅基だった。
石田種生版はどちらかといえば、ブルノンヴィルのヴァージョンに近いのだが、ジークフリート王子の心理に深く迫っている。第2幕で花嫁を選ぶ式典に登場するジークフリートのオデットへの深い想いを抱いた表情を、クローズアップするように描いた演出は、このドラマを引き締める見事なものだった。
第3幕のジークフリートが心底から許しを乞い、オデットも許し、二人でロートバルトに立ち向かって愛の力で勝利を得る、と言うストーリーは説得力がある。囚われの白鳥が人間の姿を取り戻すエンディングは、音楽の構成も含めて良く整えられていると思う。
オデットを踊った関本美奈は、当初は緊張気味だったが、長身でスリムなプロポーションを活かした良い踊りだった。ポール・ドゥ・ブラはきれいだったが、表情にはもうひと工夫ほしい気がした。
オディールを踊った橘るみは小柄だが細くしなやか、しっかりした踊りで人気を集めていた。
(1月19日、新国立劇場 中劇場)
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| 関本美奈・小林洋壱 |
若生加世子・黄凱 |
小野寺修二作・演出、首藤康之出演『空白に落ちた男』
積極的に他流試合に臨んでいるバレエダンサー、首藤康之が声をかけ、「水と油」の活動休止後、フランスで修行を重ねてきた小野寺修二が応じて創られた新作『空白に落ちた男』を観た。二人の他に、Dance Theatre LUDENSなどで踊る梶原暁子、マイム出身の藤田桃子、丸山和彰が出演している。
ある事件の捜査に行き詰まった刑事Sの日常に起る----本当に起っているかどうかも分からないが----ミステリアスな出来事を、「水と油」の舞台と同様の手法で描いている。異なっているのは、バレエダンサーの首藤が参加していること、装置が計算されて精緻に作られていて、4ヶ所に出入りの多いドアがあり、非現実的な情景を覗かせる窓も2カ所に設置されている。さらに天井には、同じ部屋のセットがパラレルにくっ付いていること。音楽がアコーディオンのcobaの新曲であること、だろうか。
一瞬の空きも許さないような周到なタイミングの動きが始まると、このメンバーの中では、やはりバレエダンサーとして鍛え抜かれた首藤の動きが際立つ。それがつまりは、刑事役のSとして生かされることになって、うまく全体のバランスがとれている。
突然目の前に自分のトレンチコートを着た人物が現れたり、妻が二人居ると思えたり、女の死体がころがっていたり・・・事件の解決のためのエネルギーがミステリアスな日常の迷宮に入り込んで行く。その刑事役に扮している首藤を観ていたら、ベジャールの『コンクール』で、トレンチコートを着て踊ったジョルジュ・ドンの舞台姿を思い出した。
もう、ドンもベジャールも逝ってしまったが、『コンクール』はベジャール・バレエの中でも数少ないコメディ・バレエだった。やや高踏的なユーモアを、今では猫も杓子も使う言葉だが<スタイリッシュ>に求めた作品で、大ヒットはしなかったけれども。
さすがに首藤はタバコを吸う格好も堂に入っている。そのまま『若者と死』を踊り始めてもおかしくないくらいである。彼は常々「作品も進化する」と言っているから、千秋楽近くなったらもう一度、観に来てみたい、と思った。
(1月15日、ベニサンピット)
ニブロール10周年記念新作公演『ロミオ OR ジュリエット』
『ロミオ OR ジュリエット』は、あらゆる境界線を見極める作品で、関心をそそった表題は、ひとつの象徴として選んだということらしい。
確かに、境界線、ボーダーラインという視点から、現在の地球を捉えたらまさに複雑怪奇に入り組んだ境界線だらけ。地球は境界線が無限に集まって丸くなってしまった、といいたくなるくらい。くっきり表記されたものから、限りないグラデーション、とりとめなく動くファジーなもの、日常的なことから見ても境界線がはっきりしているもののほうが遥かに少ない。
天から舞台の前後に吊るされた何枚かの紗幕。ダンサーの間を仕切ることもあるし、天にあげられてフリーな空間となることもある。森羅万象に関わる高橋啓祐の映像が紗幕はもちろん、床や背後、左右の壁に全面に映し出される。矢内原美邦の振付は、一見八方破れのような生きることを拒否するかのような激しい動きを、随所に挿入しがながら全体の大きな流れを構成している。
また例えば、一人一人のダンサーたちが自分の物語をしゃべり始めると、音声や映像によって中断してコラージュする。すると、「ここ!」とダンサーが叫んだ時、それはどこなのか、一人は高校時代のルーズソックスを履く時であり、もう一人は目の前に突然現れた顔であったり、境界線が無限に入り乱れる地球上の「今のここ」が実感されるシーンだった。
生物の種族にも境界線をみると、それはもう凄絶ともいえるような映像の氾濫となって投影され、絶滅危惧種から猫やペンギンなどの様々な種の並列が地球の現在を感じさせる。そして最後に水の映像が命の姿を映しているかのようで圧巻だった。
(1月20日、世田谷パブリックシアター)
芙二三枝子舞踊団が『青坐』『はるの詞(ことば)』『未来よ』を上演
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| 『青坐』 |
今年初めての現代舞踊作品は芙二三枝子舞踊団の3作品を観た。
『青坐』は1976年に初演されたものを2008年版に改めて上演された。この作品は、舞台奥からダンサーが登場し手前と奥の行き来を中心とした縦の動きの<陽の世界「ひたすら生きるいのち」>と、上手と下手に向かう横の動きによる<闇の世界「彼岸への移行」>、丸くなって円をえがきながら踊る<青の世界「母なるエネルギーと交わり いのちの誕生」>という構成。
活き活きと生きる命が倒れ、彼岸に移り、再び命が蘇生するまでを描いている。シンプルな動きで群舞を巧みに組み合わせて、パズルを解いていくように構成されている。
音楽はマイルス・デイスの曲が使われていた。
『はるの詞(ことば)』は芙二三枝子のソロ。琴の音が流れる中、はるの喜びを表すソロで、最後にピンクスカーフを取り出して祝った。高齢ながら堂々たる舞台姿だった。
『未来よ』は、幕が開くとまず、芸能山城組の「巨竹交響打楽ジェゴグ」を生演奏する鮮烈なオーケストラが目に飛び込んでくる。バリ島の獸面や極彩色で彩られた太い竹の楽器。「たとえ、地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える」という東欧の詩人オルグの詩の一節に触発された、山城祥二の曲が演奏され、生の暗黒面、異形の面と美しく麗らかな面が踊られ、交錯する。
ガムランの音と日本人ダンサーの動きが交わって、生きるということの独特の雰囲気が生まれ、未来への窓を開けてみせた。
(1月12日、あうるすぽっと)
井手茂太と康本雅子による「日本昔ばなしのダンス」
井手茂太の振付・出演、康本雅子の出演による『かみなりむすめ』と、康本雅子の振付・出演、井手茂太出演の『さんねんねたろう』が、第2回目の「日本昔ばなしのダンス」として上演された。
『かみなりむすめ』は、子供たちと遊びたくなって地上に降りて来た、かみなりむすめに扮した康本雅子がなかなかチャーミングだった。動きも楽しく、セットも凝っていた。
『さんねんねたろう』は、すぐに布団にもぐりこんでグーグー寝てしまう、ねたろうがユーモラスで、客席のそこここの子供たちから笑い声があがった。
言葉を使わないダンスを、子供たちは意外とよく見ている。動き方の中に自分の感覚や気持ちを素早く発見できるのだろう。私たちが、慣れて見失いがちな日常の動きの中に、彼らとコミュニケーションを交わせる要素があるはず。この企画はそれを教えてくれただけでも有意義なものだった。
ただ、もう少し思い切って子供たちを楽しませるための試みがあってもいいのではないか。子供たちにダンスを教えるというより、子供たちが踊りだしてしまう、きっかけを作る公演であってほしい、とも思った。
(1月20日、彩の国さいたま芸術劇場 小ホール) |