関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi
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北からは桜、南からは<夏日>の声が聞えてくると、 ユーラシア大陸に沿って延びる日本列島の位置を改めて感じます。特に、私はさらに西南の大陸の街、 上海を旅して帰って来ましたので、桜花爛漫の便りは、まるで前世の出来事のように想えてしまいます。

多彩に展開するベルギー・ダンス、ローザス『ディッシュ』

 ベルギー・ダンスの花々があちらこちらで咲き競っている。
 まずは、ローザスの『ディッシュ(ザ・セカンド・パート・オブ・ナイト)』。インド音楽のラーガとジョン・コルトレーンの『インディア』を使い、 3人のダンサーが踊る5つのシークエンスからなる舞台である。
 振付は、ラーガのパートはダンサーとしても踊っているアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルで、『インディア』にはバルセロナ出身の サルヴァ・サンチスが振付けている。さらに、トリシャ・ブラウンに学び、今はローザスで踊っているマリオン・バレスターも加わって3人で踊った。


  背景に裸木で組んだ棹に、淡いベージュと黒の大きな更紗を吊し、ダンスの流れと共に上げたり下ろしたり、更紗の色を換えたりする。これは下手に控えたスタッフが、麻紐のように見えるロープを手作業で操っているのが垣間見えるようになっている。舞台の中央は白い床になっているが、そこにはうっすらと細かい砂が撒かれていて、ダンサー衣裳の裳裾が翻ったリすると、幽かに薄い煙が見える。
 ダンサーたちは、登場する時からタオルを持ち、時に汗を拭ったり、あるいは退場したダンサーが舞台に残していった シャツに着替えて踊ったリする。特別な舞台空間ではなく、日常の時間の中で踊っているダンスということか。 木、布、砂で構成した舞台のヴィジュアル、現実に生きるダンスの踊り方といったものにインドが映されていて、 現代の西欧の文明、あるいはダンスに対する批評がなされている。舞踊家としては、率直なインドのイメージと 自由なダンスを提出しただけなのかもしれないが、観客には一種のヒーリングの空間を提供しているのである。
 ダンスもケースマイケルのフレーズはゆったりとして流れのあるものだったが、サンチスのやや速い動きとも 上手く調和していた。じつに繊細な動きの構成である。ダンスの詳細な分析・解説はプログラムに掲載されているサラ・ヤンセンの一文が、 ほとんど語り尽くしているので、ぜひご参照されたい。
  


(4月11日、彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)
 

ヤン・ロワ−ス&ニードカンパニー『イザベラの部屋』

 やはりベルギーから、音楽やダンスなどとともに舞台を創る演劇集団として注目を集める ヤン・ロワ−ス&ニードカンパニーが来日し、『イザベラの部屋』を上演した。『イザベラの部屋』は、2004年にアヴィニヨン・フェスティバルで初演され、各地で 130回以上も上演されてきた作品である。
 脚本はヤン・ロワ−スが、夥しい数のアフリカの民族的なオブジェや考古学のコレクションを残して亡くなった父の死に、インスピレーションを得て書いた。
 そうしたアフリカの様々なオブジェに囲まれて暮す盲目の老女イザベラの部屋で、 20世紀という時代を生きた彼女の生涯が、ダンスと音楽やナレーションを自在に使って描かれている。
 観客には、 1910年から 1995年のまでのイザベラの歴史を記した小さな紙が配られる。

 イザベラはアンナとアーサーの養女だが、父のアーサーはアンナが死ぬとアルコール依存症となり、 嘘だとか真実だとか叫んで錯乱する。やがてアーサーも死ぬと、イザベラ宛てに残された手紙があり、そこには、アーサーが アンナをレイプしてイザベラを身ごもるが、アンナは気絶していて知らない。アーサーとアンナは一緒に暮すようになって、 修道院に捨てられていたイザベラを養女としてひきとったが、つまりはじつの親子だったと出生の秘密が記されていた。
 そしてイザベラの孤独な生涯が、愛人のアレクサンダーや砂漠の王子、姉の「悪」(右脳)、妹の「喜び」(左脳)、 性感帯、死んだアンナやアーサー、語り手、はたまたヤン・ロワ−ス自身などが登場して、愛し合い、笑い、喜び、悲しみ、衝撃を受けるなど しながら描かれる。現実と空想の人物、感覚が擬人化された登場人物たちが、雑然としたイザベルの部屋から、原爆投下直後の広島、パリ、 アフリカを巡りながらストーリーが展開する。


 主として音楽とダンスあるいは大袈裟な身ぶりによって表現されていくが、 意外に混乱なく説得力を持って整合されている。いわゆる演技的な表現はほとんどなく、人生の皮肉やガルゲンフモールが 生み出すリズムや動きが、ユニークな舞台美術とコラージュされて、深い悲しみや孤独あるいは喜びを浮かび上がらせている。 20世紀の人間の存在の意味を問うひとつの試み、と言ってもいいのではないだろうか。
<死の舞踏>とタンツ・テアターを渾然としたような手法の舞台に見えたが、ヒエロニムス・ ボッシュやブリューゲルなどのフランドル芸術の伝統が舞台に現れたものなのかもしれない。
(4月 8日、彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)


黒田育世の新作『ペンダントイブ』

 ロンドンのダンス・フェスティバル、ダンス・アンブレラに参加したり、ジョセフ・ナジ振付『遊* ASOBU 』 への出演などの海外活動が多かった、黒田育世が率いる BATIK の久しぶりの新作『ペンダントイブ』。黒田ファンにとっては待望の舞台だった。
 甘いメロディの口笛とともに、天から宙吊りの少女がゆっくりと回りながら降りてくる。静かな幕開けだが、西部劇の決闘の始まる前のような 爆発寸前の抑制された緊張感が、舞台に張りつめる。観客も何か期待しているのかもしれない。  やがて、少女は何かに取り憑かれたように泣き叫び、のたうち回る。”いくちゃん”という声がどこか遠くから、 時折、聞こえてくる。
 少女の母親か姉か、おばさんか親戚か、少女の絶叫が感染し、集団はパニックに陥り、泣きわめき、 叫び、突っ走り、のたうちまわり、爆発は際限なく続いていくかのようである。少女の持つ底知れぬエネルギーが、留まるところなく奔放に放出される。

 狂乱のパニックが演じられているが、舞台では女性の存在を表す不思議な気の流れが集団を支配していた。
 終盤には、小さい緑の葉が大量に舞い散る中、背後の暗幕が落ちて強烈な逆光が観客席を照射した。 じつに衝撃的な舞台だったが、絶叫して走り回っては倒れ、静かになるとまた狂乱が始まる、といったことの繰り返しがやや 単調に感じられる面がないわけではない。
 しかし黒田が持つ、女性の、あるいは少女のと言ったほうがいいのだろうか、存在の深部に迫る才能は 端倪すべからざるものがある。演出や動きといった細部よりも、ダンサーたちの女性のエネルギーをここまで集結する能力には驚嘆させられた。


( 3月 29 日、世田ヶ谷パブリックシアター)


 コンドルズ
『太陽にくちづけ7
バック・トゥ・ザ・フューチャー』


 初めてのヨーロッパツアーも成功のうちに無事終了したコンドルズは、凱旋公演として1999年の「ビューティフル・サンデー」以来の『太陽にくちずけ 7 バック・トゥ・ザ・フューチャー』を、東京グローブ座で上演した。
   相変わらず、近藤良平を始めとするメンバーはみんな元気いっぱいだった。ギャグやコントも冴えわたっているし、 それぞれのキャラクターが、自身に正確に把握されているので、ますます舞台の流れが良くなっている。
 特に、今回の『太陽にくちづけ 7 』は、ややダンスシーンが少なくなったように感じられた。そのためか、 一気に進行してして、もう終り? という印象が残った。いつも豪華でたっぷりと盛り込み過ぎの感があるので、このくらいの感じがいいの かもしれない。
 1番人気は、やはり少年合唱団でしょう。もう少ないでしょうけどドリフターズを観た人は、 それは懐かしかったかもしれない。しかし、このメンバーを二つのグループに分けて歌う呼吸は素晴らしかった。正直、コンドルズ、一流だぜ! と思った。
 それから、人類滅亡後の人形劇がなかなかおもしろかった。人類滅亡というこれ以上深刻になれない究極のテーマを 取り上げて、ここまで明るく楽しく、しかも人間的な味わいを残したパフォーマンスを創れるのは、やはり、世界中探してもコンドルズしか いないのではないだろうか。
( 3月 31 日、東京グローブ座)
 

 

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