関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi
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東京は梅が満開です。今年は、暖冬そして寒暖の差が激しいのですが、さすがに3月の声が聞こえてくるようになると、気温が下がってもそれほど厳しくは感じられません。きっと今年は早いでしょうね、桜花の爛漫。

様々の『ジゼル』が楽しかった、三つの公演から

  1月の末から2月までに三つの『ジゼル』が上演された。

 まず、昨年末から来日公演を行っていたレニングラード国立バレエ団に、ファルフ・ルジマトフがゲスト出演した舞台。演奏は、同じ劇場のセルゲイ・ホリコフ指揮によるレニングラード国立歌劇場管弦楽団である。
 さすがにダンスと演奏は息が合っていて、1幕終盤のジゼルが狂乱するといったドラマティックなシーンではテンポを速め、効果的に登場人物の心理を浮き彫りにした。ダンサーの動きに密着した演奏で、特に2幕では全体とうまくマッチしていた。
 ジゼルを踊ったオクサーナ・シェスタコワは、1幕では少々動きが硬かったが、2幕ではしなやかでたおやかな踊り。ルジマトフは、さすがと思わせる見事な動きで、終幕には神々しささえ感じられた。ペザントのパ・ド・ドゥを踊ったエレーナ・エフセーエワが丁寧な踊りで、若さの中にあじわい深さを滲ませていた。
(1月31日、東京文化会館)
※写真は今回の公演のものではありません

レニングラード国立バレエ団
シェスタコワ、ルジマトフ


日本バレエ協会
島添、法村
 都民芸術フェスティバル参加の日本バレエ協会公演は、篠原聖一再改訂振付・演出による『ジゼル』で、トリプルキャストが組まれていた。私は最終日の島添亮子のジゼル、法村圭緒のアルブレヒトで観ることができた。
 1幕のジゼルが狂乱するシーンでは、自責にかられたアルブレヒトは剣で自分自身を突こうとする。また、2幕の冒頭では、ジゼルの墓を詣でていたヒラリオンがウィリたちに捕まり、踊り続けさせられる姿を具体的に踊りによって見せるなど、種々の工夫をほどこした演出であった。
 島添のジゼルは、相変わらず美しいアームスの動きで、ロマンティックな雰囲気の溢れる天使の舞いをみせて観客を魅了した。しかし1幕では、死に到るジゼルを意識してかやや抑え目の演技に終始していた。そのためか、アルブレヒトへの秘めた深い愛が少々弱かったような気もした。もしかすると、あるいはそれが悲劇性にほんの少し影響を与えたかもしれない、とも思った。
 法村のアルブレヒトはじつに安定した踊りだが、登場人物の気持ちにさらにもう一歩だけ踏み込んでほしいという気もした。例えば、2幕の登場するシーンでは、ステップそのものに万感の想いを込めていることをはっきりと表現してほしいといったことなのだが。大森結城のミルタはしっかりと気を配って舞台全体を支えていた。
(2月24日、東京文化会館)
 
 スターダンサーズ・バレエ団は、レパートリーとしているピーター・ライト(追加振付・演出)版『ジゼル』を、福島昌美と福原大介という新鋭ダンサーのペアで上演した。
 幕が開くとピーター・ファーマーの装置と衣裳の美しさに目を奪われる。じつに見事な色彩のバランスを具体的な風景の中に見せ、ひとつの宇宙観を感じさせる。現実の秋よりも秋らしい、まるで絵本の中に入り込んでしまったような錯覚を覚える。
 ピーター・ライトがストーリー・テリングの才を遺憾なく発揮した演出は、ほとんど隙がなく、特にジゼル狂乱の場面は、オーケストラ(田中良和指揮、東京ニューシティ管弦楽団)と登場したダンサーが一体となって盛り上げ、たいへん感動的だった。振付指導のデニス・ボナーの力も寄与しているのであろう。ただ一ヶ所だけだが、1幕冒頭でアルブレヒトが村人に変装して登場する際、剣を外し忘れて出てくるのは些か過剰な演出で、細やかさが裏目にでていると思われた。
 福島と福原の若いペアは、最初は緊張気味だったが、次第に調子を出して踊りに逞しさすら感じさせた。しかし、1幕のたわいのない日常の戯れの中に、愛し合う恋人たちの無上の幸福がある、という表現にはあるいは経験がおよばないのか、ついていけない面も感じられないではなかった。
 ヒラリオンの新村純一が、アルブレヒトとは対照的にちょっと粗暴な森番らしさをうまく表現していた。
(2月18日、神奈川県民ホール)


スターダンサーズ・バレエ団 
福島、福原


スターダンサーズ・バレエ団


新国立劇場バレエ、真忠久美子と山本隆之の『眠れる森の美女』

 新国立劇場のレパートリーとなっている『眠れる森の美女』は、コンスタンチン・セルゲーエフの改訂振付によるマリインスキー劇場版である。美術・衣裳はシモン・ヴィルスラーゼ、エルマノ・フローリオが東京管弦楽団を指揮した。
 プロローグからローズアダージョまでは、素晴らしい流れでほぼ完璧の舞台だった。フォーメイションに狂いは無く、コール・ド・バレエもポジションはきちんと正確であり、指先に到るまで狂いはない。踊り慣れた4日目の千秋楽で、プリンシパルもゲストではなく新国立劇場バレエ団のダンサーだった、ということもあっただろうが、それにしてもじつにゆるぎない踊りの流れであった。

 特に、1幕の噴水、背後の森と花婿候補のポジションは、定番とはいえ『眠れる森の美女』らしい統一感のある美しさを醸し出した見事なものだった。それに比べると、第2幕冒頭の森のシーンのフォーメイションが単純過ぎてもの足りないほど、1幕のヴィジュアルは優れて印象的だった。
 真忠のオーロラ姫は、健気な感じが出て安定した踊りだった。ただ、さすがに長丁場、ラストのグラン・パ・ド・ドゥでは些か疲れていたかもしれないが、立派な舞台であり、観客も喝采で応えた。
 山本はもう、余裕すら感じさせて堂々としていてしかもさり気なく王子を踊って見事だった。
 マシモ・アクリのカラボスも良かったが、やはり、島添亮子のフロリナ王女が目を惹いた。柔らかいフィーリングで舞台にあえかな情感を漂わせ、踊り終った後にも余情を感じさせる数少ないバレリーナである。
 近年観た中ではとりわけ優れた『眠れる森の美女』だった。

(2月4日、新国立劇場 オペラ劇場)

「眠れる森の美女」
真忠久美子、山本隆之

松山バレエ団の新『白鳥の湖』

 通常上演されている『白鳥の湖』の基本とされるプティパ版では、ある王国の王子ジークフリートの成人式から始まり、母の王妃から王国をつつがなく収めるためにも花嫁を娶るように要請される。
 王子は、自由気ままに過ごしてきた青春の終りという人生の節目に、憂愁を感じる。そして、神秘的な森の中で出会ったオデットに惹かれる。

 清水哲太郎の演出・振付による松山バレエ団の新『白鳥の湖』は、神聖ローマ帝国皇太子のジークフリードが戴冠式を行うシーンから始まる。その豪華な式典には既に、魔王フォン・ロットバルトが経験の浅い新皇帝が着任するこの国をさん奪しようと奸計を廻らして参加している。さらに、ジークフリードがオデットと出会い恋に陥るのも、じつはフォン・ロットバルトの導きである。そして、魔王の奸計によって始まった恋がどのような結末を迎えるのか、が描かれる。ジークフリードの青春の終りが、具体的な政治的社会的背景の中に捉えられているのである。

 複雑なコール・ドの動かし方は見事であり、ロットバルトの魔術が巨大な暗黒の塊を自在に操って封印を行うシーンも迫力がある。また、3幕はプティパ版などで踊られるディヴェルティスマンではなく、ヨーロッパの様々の王国からの派遣団が踊る、という設定となっている。
 4幕は幕が開くと、舞台全面にホワイトリノリュームが敷き詰めてあり、まばゆいばかりの明るさが感じられて、たいへん印象的だった。純白の美しさが、オデットとジークフリードの愛の崇高さを際立たせる、心憎い演出である。
(2月1日、NHKホール)

ナチョ・ドゥアトとヤンファーブル

 2月には、ナチョ・ドゥアトとヤン・ファーブルという世界の注目を集める舞踊家の公演を観ることができた。

 ドゥアトは、1999年にドイツのワイマール市と共同制作した『バッハへのオマージュ』を上演した。
 この作品は2部構成となっており、第1部は「マルティプリシティ」である。ここでは、オペラ以外のあらゆる音楽の領域に手を染め、多様な様式を作り、「バロック音楽の統合者」ともいわれたバッハ。彼の人生というか背負った現実を、彼の音楽とダンスによって、舞台にバッハとおぼしき人物も登場させて描いている。チェロを演奏するバッハが、チェロの弓で女性の身体を奏でる、といったおもしろいアイディアのダンスシーンなどもあった。

 第2部は「静けさと虚ろさのかたち」。ここでは具体的な衣裳はなく、黒いセパレートとロングスカートのワンピースを男性も女性も同じ衣裳を着けて踊る。こちらは死の世界というか、死に至る意識の中を廻る映像を描いている。やがてバッハが死ぬと、背景の綴れ折りに天に向かって上がっていく小道を、すべてのダンサーたちがゆっくりと登っていく。そして最後はドゥアトのソロ(プロローグもそうだった)。
 アリアで踊られる美しいシーンもあったが、全体には、スピーディでじつによく整えられた動きである。ドゥアトらしくダンサーの出入りの多い作品だが、特にダンサーの舞台からの消し方が上手い。なんとも言えないドゥアト独特の余情が舞台上に残って漂うのである。

(2月3日、神奈川県民ホール)

「バッハへのオマージュ」


「バッハへのオマージュ」

「わたしは血」

 ヤン・ファーブルの『わたしは血』は、1995年にファーブルが「血」を主題として書いたテキストをもとに、2001年のアヴィニヨン・フェスティバルで初演された作品。ダンサー、俳優、ミュージシャン20名が登場する、非常に過激な表現による鮮烈な舞台である。
 客席に着くと既に舞台上では、Tバックの赤いパンツだけの太った中年の男が、葉巻きをくゆらせたり、身をくねらせて挑発している。黒い聖女の衣裳を着けた女性が頭上に一冊の分厚い本をのせて、舞台をゆっくりと無感覚に歩き回っている。左右には長いテーブルが並べられ、必死に何かを拭きとろうとしている男や女。突然、中世の騎士の金属性の鎧を纏った一団が登場、隊長とおぼしき男が、長剣を力いっぱいムチャクチャに振り回して倒れる。
 左右のテーブルの上に立って、頭にアルミの如雨露(ジョウロ)を被った中世の聖職者のようなグリーンの衣裳の男女が、奇妙な儀式を行っている。剣を闇雲に振り回していた隊長が意識を失うと、グリーンの僧侶のような二人が、隊長の身体を解体するかのような作業をし、「血」に関するテキストを朗々と読みあげる。
 解説の宇野邦一の文章によると、キリスト教が支配したフランドル地方では、キリストの処刑とバッカスの祭りを混在させたような神秘劇が上演されていた、という。
 ファーブルは「血」側から、つまり身体でも意識でもなく、血こそが存在であるという観点から、フランドルの伝統的な神秘劇を蘇生させたのであろうか。異様な美しさが際だった残酷の交響詩であった。
(2月16日、さいの国さいたま芸術劇場)
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