長い梅雨がやっと開けたと思ったら、案の定、猛暑がやってきました。けれど、東京の夏はダンスの季節、エキサイティングで熱い舞台がいっぱい。
今月から、「パリは燃えているか?」の欄は、渡辺真弓さんに変わって斎藤珠里さんが担当してくださることになりました。ロンドン、ニューヨーク、東京とともに、世界のダンスの潮流が一望できる「Dance Cube」を今後ともよろしくお願いいたします。
ジョエル×サープ『ムーヴィン・アウト』の素晴らしいニューヨーク
全曲ビリー・ジョエルの音楽を使って、原案から演出・振付をトワイラ・サープが創ったブロードウェイ・ミュージカル『ムーヴィン・アウト』が上演されている。2003年には、この作品はトニー賞最優秀振付賞、アステア賞ほかを受賞している。
ニューヨークの仲の良いカップルたちが、時代の息吹きを感じながら結ばれたりほどけたりしていく様子を、ジョエルの音楽とダンスで綴っている舞台である。
第1幕では、60年代風のいささかオカマ坊ちゃんみたいなニューヨーク・ファッションを纏ったカップルが登場。幸せを信じる時代の空気を満喫するように踊る。
第2幕になると一転して、ディンジャラスなニューヨーク。通りすがりの女性にからみ、金をかすめ取る男たちがあちこちにたむろする街に変貌している。サイケデリックな照明が舞台に溢れ、ドラッグに明け暮れる若者たち。
やがて死神までも登場して<プレッシャー>。俺たちは一緒に死ぬんだ、と。ヴェトナム戦争の黙示録ふうのヴィジュアルも現れる。
そして、ドラッグで失った身体をジョギングで回復する、とまでは単純ではないだろうが、愛を信じて生きるアイディンティイを掴まえる。ニューヨークの変遷をそのまま現代の絵巻として、素晴らしいジョエルの音楽とサープのダンスで回り舞台のように鮮やかに描いている。
サープの振付は、女性ダンサーの美しい脚を強調して、バレエの動きを基本としながら様々のヴァリエーションを使っている。美しい脚には、たいてい高いヒールの靴が履かれているが、時折、トウシューズも使われていて、サープ独特のアーバン感覚の魅力的なラインが舞台に魔術をかけたよう。簡潔な演出とともに、ニューヨークで創られたニューヨークの音楽によるニューヨークを描いたミュージカルの傑作である。
バレエファンにもお馴染みのラスタ・トーマスが、ブレンダン・キングとダブルキャストで、主役のエディを踊っている。
(9月2日まで、東京厚生年金会館)
ジャン=クリストフ・マイヨーの『夢』と『シンデレラ』
モナコ公国のモンテカルロ・バレエ団の来日公演『夢 Le Songe 〜「真夏の夜の夢」をモチーフにして〜』(2005年)と『シンデレラ』(1999年)を観た。
二作品とも芸術監督のジャン=クリストフ・マイヨーの振付である。実は、私は、マイヨーの振付の華麗な才能には感心していたが、その舞台に、もうひとつ気持ちを入れて観ることができなかった。ひとつは音楽と振りの一体感が、マイヨーの才気走った表現のために犠牲にされているのではないか、という印象。もうひとつは、マイヨーの舞台表現に潜んでいる、いささか実感的といおうか皮膚感覚的といおうか、敢えて言えばロー・ブローともととれる感覚。そのふたつが気になっていたのである。
しかし、今回の『 夢 Le Songe 』では、目が開かれる思いだった。
マイヨーはシェイクスピアの『真夏の夜の夢』の世界を、妖精、アテネの人々、職人たちに分け、それぞれに音楽を配した。妖精はダニエル・テルッジによる電子アコ−スティック音楽、アテネの人々にはメンデルスゾーンの曲、職人たちには振付家の弟で、演劇やダンスの音楽の分野で活躍しているべルトラン・マイヨーの曲である。
オベロン、タイターニア、パックなどの妖精たちは、愛の本能そのもの、人間たちが営む愛そのものが妖精の姿となっている。あるいはまた、彼らはしばしば神々の姿となって人間の前に現れるが、ふつう彼らは人間の目には見えないのである。
ハーミア、ライサンダー、デミトリアス、ヘレナなどのアテネの人々は、愛し合い結婚を望むごくふつうの人間たちである。ニック・ボトム、クインス、ロビン・スターヴリングなどの職人たちは、物を造る自分たちの仕事にフェティッシュな愛を感じている。ここでは彼らは、結婚式の余興の芝居創りに熱中しているのだが。 |
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愛という観点から人間を、愛し合い結婚生活営むふつうの人たちと物を造ることを愛し没入するフェティッシュな人たち、という2分法で捉えていいのかどうかは私には不明だが、少なくともこの作品ではそのようにみえた。可動式の装置も完結した世界を表していて、人間の欲望全体を捉えているという説得力もあったと思う。
ともあれ、この三つの世界が交錯し、オベロンの要望やパックの戯れ心が作用して、愛に関する様々の態様が繰り広げられる。そのポリフォニックなブレンドが、美術や照明の高度の技術を駆使しつつ絶妙であった。
アテネの三つのカップルが入り乱れるアップテンポのダンス、コメディ・フランセーズの薫陶を受けたという職人たちの劇中劇など、見応えのあるシーンが多い。その中でも、多くの評者が指摘しているように、オベロンによりロバに変身させられたボトムと、そのロバに惚れさせられてしまったタイターニアが愛し合うシーンが圧巻。メタリックなシルバーのトーンの身体に密着した衣裳と、尖端に房のついた長い白い綱を使った、大きな輪郭を描く大胆な動きに、会場は一瞬静まり返った。見事な造形力というべきであろう。
終盤の結婚式では、収まるべきところに収まったカップルが愛の結晶となって、アテネの彫像のごとくポーズをとる。エロス的世界を鮮やかに象徴的に集約したシーンである。(7月14日、オーチャ−ドホール)
一方『シンデレラ』は、プロコフィエフの音楽を使っている。
マイヨー版では、シンデレラの亡くなった実の母が仙女として登場。シンデレラと、今は再婚して優しい心を見失っている実の父に奇跡を起す。継母と異母姉妹は、欲望に取り憑かれた人間であり、シンデレラは、かつて父と母が愛し合っていた幸福な家庭を願っている。
仙女の計らいにより、王子の舞踏会に招かれたシンデレラの足は光り輝いていた。王子はその足の輝きこそ、自分が求めていたもの、と思い愛のパ・ド・ドゥを踊る。しかし、12時が告げられるとシンデレラは消える。 |
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王子はシンデレラを求めて旅にでるが、仙女に助けられて無事再会を果す、という物語となっている。
幸せを求めるシンデレラと愛に目覚めた王子の出会いを、仙女によって実現していく、魔術的ファンタジーである。全体にマイヨー独特のテンポで描かれており、いささか単調に感じられるパートもあったし、音楽と振りが途切れたように感じられるシーンもあった。しかし、凝った美術やきらびやかな衣裳と、自在のダンスで雰囲気あふれる舞台だった。(7月9日、オーチャ−ドホール)
牧阿佐美バレヱ団によるプティの傑作『ノートルダム・ド・パリ』
ロ−ラン・プティ振付の『ノートルダム・ド・パリ』(1965年初演)は、巨大なノートルダム寺院の醜い鐘突き男カジモドと、ジプシーの美女エスメラルダの実ることのなかった哀しい愛の物語である。だが、プティはセンチメンタルな情感に陥らず、巨大なセットとサン=ロ−ランの色彩溢れる衣裳を使って、ミュージックホール風の舞台表現を導入した華麗なるバレエを創っている。(今回は新国立劇場の優秀な舞台機能を使った完全版として上演された)
登場人物は、カジモド、エスメラルダとエスメラルダが思いを寄せる歩兵隊長フェビュス、カジモドの恩人だが冷血な司教代理のフロロの4人に絞られ、それぞれの葛藤シーンに、コール・ド・バレエが展開してすべてを語っていく。 |
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音楽は、初演当時、大作映画の作曲家として有名だったモーリス・ジャール。叙事的というか劇版的な曲で、それぞれのシーンの雰囲気を盛り上げている。しかし、<哀しい愛のテーマ>といったような登場人物の感情を直接描くメロディは聴こえてこなかった。代わってというわけではないが、独特のカラフルな衣裳を着けたコール・ドの動きによって、悲劇的予兆や死、絶望、暴力などが表される。こうして、ヴィクトル・ユーゴーのペシミスティックな運命の悲劇が浮き彫りにされるのである。しかし、やはり、カジモドの魂の悲鳴を表す鐘の音とか、ドラマのモチーフに共鳴するようなメロディが欲しかった、と思うのは通俗な感想だろうか。
第2幕の揺れる大きな鐘の動きにシンクロして始まる、カジモドとエスメラルダのパ・ド・ドゥは、バレエのパとポピュラーダンスの動きをミックスした独特の動きで、今みてもたいへん斬新な印象である。カジモドの特殊な身体性を逆用して、見事な効果を上げている。 |
エスメラルダを踊ったルシア・ラカッラは、まるでオードリ・へップパーンのように魅力的。巨大なセットやサン=ロ−ランの艶やかな色彩ともコントラストをなす、素晴らしいムーヴメントであった。カジモドのリエンツ・チャンはしっかりとした明確な表現と動きで、ラカッラの美しさを引き立てた。菊地研のフロロはシャープな動きで強い印象を残した。(7月22日、新国立オペラ劇場)
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