関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi
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 夏がもうすぐそこまで来ているのを感じるのですが、なかなか梅雨が開けないもどかしい想いの日々が続いています。パリ、ロンドン、ニューヨークのオペラハウスもシーズンが終了、ダンサーたちは、次のシーズンに向けて心身のリフレッシュと充電に努めるでしょう。秋の舞台、楽しみですね。

ルジマトフがラスプーチンを踊った!

 ファルフ・ルジマトフが、ノーヴィ・インペルスキー・ルースキー・バレエとともに、新作『ラスプーチン』を踊った。振付はゲオルギー・コフトゥンである。

 ラスプーチンは周知のように、ロマノフ王朝の末期に宮廷内部の政治的決定にまで関与したとされる、怪人物の修道僧である。
 ラスプーチンが跳梁した時代は、大国ロシアに長期に渡って君臨したロマノフ王家も、日露戦争の敗戦などにより政治的な栄光が失われつつあり、夕陽が沈む直前の光の氾濫のような爛熟した文化と頽廃的な気風が横溢していた。一方、ドイツなどの労働運動の影響もありロシアの民衆の巨大なエネルギーは、出口を求めて渦巻いていた。
 次第に皇帝の強権が衰弱していく実感に苛まれつつ王位を継承したニコライ2世は、ドイツ系の美貌の皇女アレクサンドラとの結婚を切望した。しかし、ニコライ2世とアレクサンドラから生れた唯一人の男子、アレクセイは血友病だった。しかもこれは、皇后アレクサンドラの家系からもたらされた病だった。300年におよぶロマノフの栄光に運命の一撃がくだされたのである。
 このようないわば<ロシア的な混沌>の最中に、一人の霊感を身につけた異能の修道僧がロマノフ家に現れた。彼、ラスプーチンが皇帝の一粒種のアレクセイに治療を施すと、一時的だがその霊験が現れたのである・・・。
 辺境ではあるが、当時の(今もだが)ヨーロッパに甚大な影響力を持つロシア。その国のまさに燃え尽きなんとする蝋燭のような命運が、快僧ラスプーチンの手に握られたのである。

 これ以上おもしろそうな設定があるだろうか、と固唾をのむ。
 コフトゥン振付の『ラスプーチン』は、ルジマトフが演じる主人公ラスプーチン、皇后アレクサンドラ(エレーナ・エフセーエワ)、皇帝ニコライ2世(ユーリー・ヴィスクベンコ)、皇太子アレクセイ(エレーナ・ニキフォロワ)、守護天使(アナスタシア・トレチャコワ)の5人を主要登場人物とする2幕構成である。

 第1幕は、主としてロマノフ家の霊を守る守護天使とラスプーチンの葛藤を軸に展開する。第2幕では、彼とアレクサンドラの仲を疑う皇帝ニコライの苦悩とラスプーチンの乱痴気騒ぎ、そして終幕の殺害シーンへと進む。ちなみに、憂国のロシア貴族たちによる現実のラスプーチン殺害では、銃に撃たれさらに大量の毒を盛られ、ネヴァ川に投げ落とされてもまだ息があった、という逸話が残されている。
 バレエ『ラスプーチン』のラストは、長い白い布によってラスプーチンの殺害が予告される。そして、白、青、赤の三つの大きな布に、ラスプーチン、ニコライ、アレクセイ、アレクサンドラが捉えられてもみ合い、髑髏の面を付けたラスプーチンにスポットがあたって幕が下りる。白、青、赤は、1993年に復活したロシアの国旗の配色である。

 演出・振付としては、なかなか迫力のあるダンスシーンでスケールの大きな素材を手際よくまとめていた。ただやはり民族舞踊風の場面構成で展開され、ソロやパ・ド・ドゥによる心理的に突っ込んだダンスが少なかったのは残念である。
 ルジマトフは一頭抜きん出た存在感で、このロシア的なるものを象徴する歴史上の人物を、ひとつの典型のごとく鮮やかに浮かび上がらせていたのは、さすがというほかない。
(6月21日、新宿文化センター)


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ジゼルは幸せだったのか、3作の『ジゼル』から

 私は『ジゼル』を観る時は、いつも「このジゼルは幸せだったか」と問うことにしている。舞台がはねた後、「今日のジゼルは幸せだった」という感想を持てた時は、その『ジゼル』は成功作。しかし「今回のジゼルは幸せじゃなかったかもしれない」と感じられた場合は失敗作、そう一人決めしている。
 最近はなぜか『ジゼル』の上演が多いから、比較するチャンスも自ずと増えている。

 まずは新国立劇場バレエ団の『ジゼル』。これはコンスタンチン・セルゲイエフ版でドジンスカヤが監修しているが、ゲストは、クレマリー・オスタとパンジャマン・ペッシュのオペラ座ペアだった。私はオスタのジゼルを切望していたのでよかったが。アルノはそのためにバレエマスターに入っているのだろうか。あるいは、今さらロシアだとかフランスだと言う方がおかしい、ということなのか、マリインスキー劇場にオペラ座のダンサーがゲスト出演するのとは明らかに異なるのだから、不思議な感じがしないではない。ところが役名はアルベルトとハンスで統一されており、こちらは厳密なのだろうと拝察する。

 がしかし、オスタは来なかった。彼女自身が来られなくなったわけではないらしいが、諸般の事情で微妙な問題があるのであろう。チケットのキャンセルも可能だったが、ほぼ満席。
 代役は昨年『ジゼル〜能とバレエによる〜』第2幕でジゼルを踊った新国立劇場バレエのソリスト、西山裕子だった。
 セルゲイエフ版は、どちらかというと、ダンスとマイムの流れを重視し、テキストにはあまり目を向けようとしていない。ハンス(ヒラリオン)はただの敵役であり、漠然とした農民の男である。農民のジゼル&ハンスVS貴族アルベルトという階級的な対立は、この悲劇の主要な要因とはなっておらず、三角関係の破綻が描かれている。演出は演劇としてよりも音楽劇的に解釈されており、セルゲイエフがダンサーとして踊った経験を重視して、随所に改訂を施しているように感じられる舞台である。

 西山裕子は美しいプロポーションを生かして踊った。初めて踊る第1幕は、表情にやや固さが残ったが、第2幕はしっかりと踊りきった。ペッシュも第2幕ではノーブルな印象を残した。ただ、第1幕の愛の表現は、恋人を愛おしく抱き締めようとするペッシュと、初々しさを滲ませようとする西山の呼吸が合わず、二人の愛の姿を舞台に浮かび上がらせるまでは到っていない。この点は第2幕でも修正されなかったように思われた。
 とはいえ第2幕は全体に、フォーメーション、コール・ド、照明などが一体となって完璧とも思われる見事な舞台を創った。
(6月30日、新国立オペラ劇場)

 熊川哲也版の『ジゼル』を松岡梨絵とスチュアート・キャシディのアルブレヒトで観た。松岡梨絵は初役とは思えないほど落ち着いてジゼルを踊った。第1幕の素朴な初々しい村娘と第2幕の毅然として愛を貫くウィリーを、くっきりとしたコントラストを描いて見せた。彼女は、高い理想を心の中に掲げて踊ることのできるバレリーナである。
 キャシディもあのコッペリウス博士を踊った同じダンサーとはとても思えないほど、抑制の利いた演技で堂々と踊った。さすがに英国ロイヤル・バレエのプリンシパルを務めたダンサー、と思わせる舞台であった。

 熊川版は、セルゲイエフの改訂振付とは対照的にテキストにこだわり、プティパ版以来のマイムも尊重している。
 まず、第1幕では、アルブレヒトは非常に細やかに丁寧にジゼルに心を配る。それはふつうの気の置けない若い恋人同士の関係としては、異常と言ってもいいほどの慎重な配慮にも見える。それはむろん、名をロイスと偽り貴族の身分を隠し、婚約者まである身でありながら、この素朴な村娘に愛を囁いている罪の意識が心理として滲み出ているからである。
 一方ジゼルは、村の男たちからは感じたことのないアルブレヒトのノーブルなマナーにも心惹かれている。ヒラリオンは、アルブレヒトがあまり関心を示さないジゼルの母ベルトに、猟の獲物を与えたり、水桶を運んであげたり、同じ農民の仲間として暮らしのレベルで交流している。
 つまり、熊川版は演劇的な要素を重視し、観客がドラマとしてバレエの舞台に共感できるように演出・振付けているのである。
 同じダンサーとして主役を踊った経験を持つ振付家のヴァージョンでも、このように異なった展開を見せている。その背景には、ロシアと英国のバレエ文化の違いがあるのではないだろうか。
(6月17日、オーチャ−ドホール)

 もう1作の『ジゼル』は、NBAバレエ団の第3回トゥール・ヴィヨン公演で、安達哲治の演出・振付によるもの。原振付にはジュール・ぺロー、ジャン・コラリがクレジットされていた。
 ジゼルはヤンヤン・タン、アルブレヒトはセルゲイ・サボチェンコ、ヒラリオンはアレクサンダー・ミシューチンである。ヤンヤン・タンの際立ったプロポーションよるジゼルは、やはり、素敵だった。繊細とはいえないが、すべての動きがシャープで大きく見栄えがする。堂々たるジゼルであった。
 振付は古典の良さを残したフォーメーションをモダンな感覚で構成しており、独特の美しさが感じられた。特に第2幕には、『レ・シルフィード』のフォーメーションを彷佛させ興味深かった。
(6月3日、調布グリーンホール)


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