佐々木 三重子 text by Mieko Sasaki
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森下真樹ダンスショウ!!

 若手のダンサー・振付家の中でも、とりわけ注目される森下真樹が、〈ダンスショウ!!〉と題した公演を、A、B二種のプログラムで行った。そのBプロに並べられた三つの全く異なる作品は、それぞれダンサー、女優、そして一種の声のアーティストとしての森下の才を際立たせるもので、自身が代表作『デビュタント』で自己紹介として語った「すっちゃか、めっちゃか、あばれんぼう」的な個性を伝える格好のステージとなった。

 最初の『peel slowly and see』は、一緒に「Study of Live Works 発条ト(ばねと)」を創設した仲間、白井剛との共同作品。安全ピンを紐のように繋げた先にバナナがぶら下がっている。円形スポットの中に森下と白井が後向きで立ち、それぞれが手に持つバナナをバトンタッチするかのように左右に持ちかえる。やがてバナナを床に置いて踊り始めた。腕や脚を鋭く振り、身をひるがえし、床に滑り込み、走り回るなど、狭い舞台一杯に動作のキャッチボールは密度を増していった。かと思うと、『フニクリ、フニクラ』をハミングし合ったりもする。白井は森下が持つバナナをかじるが、森下は白井がちぎり落としたバナナを白井の脚の間から差し出し、握りつぶす、という最後は意味深長でもあった。

続く『森下ひとり芝居+β』(脚本=田代裕一)は、大きな木になりたいセロリとヒヨコになりたい生卵が冷蔵庫から抜け出し、満月に向かって仲良く上っていくという奇想天外な、だが、ほのぼのとしたお話し。真っ赤な衣装で現れた森下は、セロリと生卵の台詞とナレーションを、ピッチや語調を変えて巧みに語り分け、落ち着いた間合いで観客の反応を確かめながら、聞き手を引き込んでいった。最後は『モリシタ アワーヅ』。粟津裕介がプロデュースする威勢の良い音楽に操られて、森下や白井、森下の妹の森下愛らが、オノマトペの範疇に入るのか、奇妙な音声に転換された言葉を競うように発し、にぎやかに歌い、踊りまくった。中でも森下は、発声や舌の動かし方が巧みなようで、よく回る口で表情豊かにまくしたてたのには感心した。このように次々に新たな魅力を発揮する森下は、目が離せない存在である。
(12月15日、こまばアゴラ劇場)

「peel slowly and see」

「森下ひとり芝居+β」

「モリシタアワーヅ」

日仏共同制作プロジェクト『Focus』

 <横浜ダンスコレクションR2006>のオープニングは、言葉、身体、映像、音楽が織り成す新しいパフォーマンスを模索する日仏共同プロジェクトの第二弾、『Focus』。この時期に開催中のロバート・キャパ写真展『Off War』の特別舞台公演として企画された。演出・脚本・映像は、前作『Line-ライン』でも演出を担当した新鋭ヴェロニク・ケイ。ブダペスト生まれのキャパは、スペイン内乱や第二次世界大戦、地雷で爆死したインドシナ戦争など、戦地で活躍した報道写真家である。ケイは、フォトジャーナリズムの確立に貢献したキャパの足跡や与えた影響を探る一方、生身の人間としての姿もとらえようとした。

 まず、キャパが一時期住んだパリの街角や連合軍が上陸作戦を練ったというオマハ・ビーチの映像が映され、キャパの生涯が俳優のアレクサンドル・スタイガーにより語られた。スタジオ風の舞台では、ポーズを取るようにゆるやかに踊るダンサーの三浦宏之を、キャパと若き日の恋人ゲルダに扮したスタイガーとダンサーの東野祥子がカメラで追う。東野は後の恋人、女優イングリッド・バーグマンにもなり、抱え持つ手鏡風スクリーンに女優の演じた映画の場面がセリフ付きで映写されると、それにうまく対応するキャパの言葉をスタイガーが語るといった具合。このアイデアは秀逸。キャパの名を高めた「崩れ落ちる兵士」というスペイン内乱での写真をバックに、三浦に兵士のポーズを取らせ、スタイガーが写真の特色や効果を分析してみせる。また、荒波のようにたち込めるスモークをかき分けて進む三浦と東野は、戦争や巨大な力に翻弄される姿を象徴しているように思えた。

キャパを知る人がその人となりや、会長を務めた国際写真家集団「マグナム」を通じて作家としての写真家の地位や写真著作権を確立させたことを伝える一方で、写真が抱える問題点も指摘するなど、突っ込みは深い。キャパをフォーカスすれば、フォーカスすべき対象は広がらざるをえないのだろう。舞台にはフランス語と英語が違和感なく飛び交った。三人の出演者だけで良くまとめたとは思うが、ダンスの役割は物足りなく感じた。また映像のインパクトが前回ほどではなかったのは、キャパの写真に敬意を表してか。ただ、写真は動きの一瞬を切り取って定着するものだが、優れた写真は前後の動きや背後の物語も写し取ってしまえることを再認識させられた。
(12月17日昼、横浜赤レンガ倉庫1号館)



Noism05『NINA--物質化する生け贄』

 一作ごとに斬新な舞台を提示する金森穣が、また独創的な作品『NINA--物質化する生け贄』を、手勢のNoismと発表した。Noismは、新潟市民芸術文化会館「りゅーとぴあ」が、わが国初の公共ホール専属のダンス・カンパニーとして金森を芸術監督に迎えて設立したもの。2005年9月で二シーズン目に入り、着実に成果を上げている。

 『NINA』は、三方を黒い幕でふさがれた舞台で、床に転がり、座り、突っ立った五人の女たちがマネキン人形のように不動で、ボックスに腰掛ける一人の男も静止したまま、という異様な光景で始まった。暗転の後、男の数は五人になる。女たちはベージュのレオタードで、男たちは黒のシャツにズボンと、モノクロームの世界である。女たちは男たちに人形のように腕や脚、体を操られ、水平や垂直に掲げられ、引きずり回されるまま。感情や意志を表そうとしても、男たちに封じられる。バウンドするリズムに乗せて機械的に踊る女のソロや、武術の要素を取り入れたような規律ある男たちの踊りもあったが、目を奪われたのは、身体の動きの可能性をここまで要求するかと思わせる男たちに、いとも柔軟に応じた「物質化する生け贄」の女たちの動きだった。女たちの身体が、そして彼女らが見せる一つ一つのポーズが、記号というか言葉となって存在を主張していたのである。

 後半では、ワンピース姿になった女性たちが変化をもたらした。前屈みで足を踏ん張って歩いたり飛んだりすると、上体が隠れているだけに、黄色いスカートからのぞいた脚が鳥のそれのようでユーモラスに映る。裸足のまま、フェッテなどバレエのステップやポーズを次々にこなし、束縛されていた状態を発散させるように快活に踊った。鮮やかな色のシャツとズボンの男も一人まじって盛り上げた。だが、女たちはカラフルな衣装を脱がされると、人形に戻った。これは、女たちに服を脱がされると、男たちもロボット化してしまう場面と呼応している。虚飾を削ぎ落とした生身の人間として、“そこに在ること”で勝負させたのだろう。それだけに、ダンサーの力量がうかがえた。音楽は、ベトナム系フランス人のトン・タッ・アン。境界のない音楽が創作の特色というだけに、クラシック音楽やテクノ調、アジア的な響き、原始的なリズムなど、変化に富んだ音楽がダンスに寄り添い、時に挑発し、効果を高めていた。
(12月24日、新国立劇場中劇場)



 

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