佐々木 三重子 text by Mieko Sasaki
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●カナダのカンパニー・マリー・シュイナールが独創的な2作品を上演

 カナダのモントリオールから、斬新な身体表現を開拓し続ける振付家マリー・シュイナールのカンパニーが来日し、2つの話題作を上演した。前半の『ショパンによる二十四の前奏曲』は、この“ピアノの詩人”による24の前奏曲に、第17曲を除いて振付けた1999年の創作という。生演奏(ピアノはジャン=フランソワ・ラトゥール)による公演は、今回が初めてだったそうだ。原曲は30〜40秒ほどの小品から5分近い曲まで様々だが、24の調性が体系的に組まれている。シュイナールは、珠玉のピアノ曲の持つ詩情や秩序を離れ、曲趣から受けたインスピレーションと戯れるように、自由な発想で振付けていた。水着のようなシンプルな衣装を着た男女のダンサーたちの踊りは、ソロやデュオ、グループと変わる。一列に並んだダンサーたちが一人の女性をバトンのように受け渡したり、女性が男性の長い髪を引っ張りながら進んだりといったファンシーな場面を織り交ぜながら、意表をつく動きや建築的なフォメーションが展開された。ダンサーたちのしなやかで逞しい体と、卓越した技術あっての舞台といえよう。

『ショパンによる二十四の前奏曲』

 後半の『コラール〜讃歌〜』は、「コレオグラフィ」と「コラール」がギリシャ語で同じ語源を持つことから着想した、セクシュアリティと神性の概念をめぐる2003年の作品。やはりソロやデュオ、群舞などの短いシーンから成るが、特異なのは、息の音や遠吠えを模した声、嬌声、あえぎ声といった声のパフォーマンスとダンスを一体化したことで、まさに原始の世界を彷彿させた。シルエットの多用も目に付いた。影絵となったダンサーたちの踊る身体は、どこか劇画的だったが、根源的な生のリズムをみなぎらせていた。脚をからめて向き合って座るヒンドゥー教の神々を思わせる男女のポーズや、男の体に飛び付きキスを浴びせる女など、セクシュアリティの描写も直截で、唐突に女性が全裸になりもした。身体の各部を舌に至るまで分節的にとらえて編み出された振りは、バイタリティに富んだもの。全体として、ワイルドさと知的な諧謔が混在する、人間の身体の可能性を讃歌する作品になっていた。

『コラール〜讃歌〜』
(3月20日、Bunkamura シアターコクーン)

●珍しいキノコ舞踊団『家まで歩いてく。』

 女性ダンサーのみによる「珍しいキノコ舞踊団」が、1年8か月振りに新作『家まで歩いてく。』を披露した。1990年の創立時のメンバーで、現在は団の代表を務める伊藤千枝が構成・振付・演出し、伊藤を含め6人のダンサーが出演したこの作品は、いつものように「生活」や「日常」を親密に紡いでいくもの。ステージには、ミニチュア家具付きの仕切りのような壁をいくつか置き、それを入れ替えたり、向きを変えたりすることで、異なるシーンを巧みに演出した。運び込まれた二つ折りのカードのような小道具が開かれると、中からイスとテーブルのセットが飛び出してきて笑わせもした。

そんな変幻自在のステージで、ごく普通の衣服を着たダンサーたちが、イスやクッションに座り、ベッドに寝転び、歩き回る。しなやかに身をたわめ、腕や脚を大きく振り回し、日常の仕草にリズミカルな呼吸を与え、空間に大きく解き放っていく。仕草をダンス化するのでも、ダンス化された仕草をなぞるのでもない、キノコ流のプリゼンテーション。台車に乗せられたダンサーが高校生活を回想して聞かせると、他のダンサーも兄弟げんかの思い出などを次々に語った。もちろん間にダンスをはさみながら。これは舞台と観客との距離を埋める効果があった。 

生活の断片を連らねたステージが、いつも以上に緻密な構成を印象づけたのは、今回の会場にもよると思う。この舞踊団は、劇場にこだわらず、ギャラリーや戸外の庭園などでも、その空間を生かしたパフォーマンスを展開してきたが、今回は、平土間のステージを客席が馬蹄型に囲むという独特の空間を持つ劇場である。だからか、野外でのように舞台が拡散しすぎて隙間を生じることはなく、全体によどみなく流れ、しかも中身が凝縮されたように感じたのである。また、ダンサーたちの技量にも一層磨きがかかっていた。ある種の“素人っぽさ”を持ち味としていた時期は過ぎたようで、今後の展開が気になるところだ。

(3月10日、彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

●ダンスカンパニーノマド ̄s『ゲズィヒト・ウント・ゲシヒテ』

 この4、5月にヨーロッパ公演を控えた「ダンスカンパニーノマド ̄s」が、新作『ゲズィヒト・ウント・ゲシヒテ』(邦題『顔と歴史――ひとつの小さな夜――』)を上演した。池宮中夫がテキスト・演出・美術を手掛け、池宮と熊谷乃理子が共同で振付けたもので、「顔(ゲズィヒト)」と「歴史(ゲシヒテ)」の二部構成。「顔」は英語では「The Face」と訳されているので、特定の顔や表情を指すのだろう。舞台後方に洞窟のような通路が見えるほか、分厚い書籍の山と2個のトランクが置かれているだけ。モヤが漂う中、迷い込んできたような人々は、床を転がったり、重ね着の服を脱ぎ捨てたり、一つの塊となり強張った顔を向けたりする。これは難民のイメージだろうか。白い服の女性の印象的なソロもあったが、多くは群舞。はしごに登り、果実を取って食べるマイムなどの具体的な仕草は少なく、次々に新たな場面が提示されるので、その関連性などを考える余裕はない。

 〈船に乗る〉の声で始まり、汽笛の響きで帰結する「歴史」も、同様の展開だった。英訳は「Phases」なので、物事の諸相や局面といった意味合いか。黒っぽい服のダンサーたちにカラフルな衣装の一群が混じり、異なる時代や場所、民族の世界が暗示された。生と死も交錯するが、ステージ脇で演奏されるピアノが効果的だった。ところで、書籍が記録=歴史の象徴なら、その扱いに興味を持った。端のほうでダンサーに本を読ませたり、客席後方からステージに運ばせたりする程度にしたことで、歴史に対する認識の希薄さを示唆したのだろうか。様々な問いを含んだ作品だが、プログラムノートに「記述不能」とあるように、論理的に理解することはできなかった。ただ、得たいの知れない何かに押し流されていく人間の姿は伝わってきた。ダンサーたちは切れ味の鋭い動きを見せ、ワークショップの参加者たちもマスとなって健闘していた。
(3月25日、横浜赤レンガ倉庫1号館)

 

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