関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi
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●松山バレエ団の『シンデレラ』

 第17回目を迎えた松山バレエ団のジャパン・バレエでは、『シンデレラ』と『ジャパン・バレエ 21』が上演された。清水哲太郎振付による『シンデレラ』は、シンデレラが父母とともにオルゴールで遊んでいる幸せな時代をプロローグに置いている。両親の形見となったオルゴールは、シンデレラの現実生活の中の幸せを希求する心の象徴となる。

『シンデレラ』は奇跡の物語である。シンデレラに起るファンタスティックな奇跡の象徴はガラスの靴である。しかし、シンデレラにアットランダムに奇跡が起ったわけではない。シンデレラは公正無比、どんなに苛められてもいじけたり反発したり復讐したりしない、いわば絶対性を備えた理想の象徴ともいうべき少女、と設定されている。そのため、時の女王が自ら現れて彼女に奇跡を起すのである。
 第1幕のシンデレラの森下洋子のソロは、そうした姿をダンスで活き活きと映しだしている。見事な表現力である。

 松山バレエは『シンデレラ』に限らず、多くの作品に様々のアイディアを使って優れた舞台を創っている。この『シンデレラ』では、彼女の義理の母と姉妹が宮廷の舞踏会に招待され、にわかにダンスを習うシーンで、ヴァイオリニストを登場させた。これはピアノを使用する前は、バレエのレッスンはヴァイオリンで行われていたということから発想されたのだと思われるが、ヴァイオリンを弾きながらのレッスンが、そのメロディとともに秀逸なパロディ・シーンを創っていた。しばしば、プロコフィエフの曲をそのままパロディの描写のように使うる場合が見受けられるが、私はどうも関心しない。松山版のような演出的な配慮こそが、プロコフィエフの曲を生かす方法だと思われる。ほかにも大きな時計を回転させて、その裏側からシンデレラが登場する、というアイディアも優れていると思った。
(9月19日、ゆうぽうと簡易保険ホール)

●コンドルズ 夏のダンス公演 日本縦断大航海ツアー2004【ビッグ・ウェンズデー】

 今年初め、近藤良平が小学校時代を過ごしたというチリなどの南米ツァーを終えたコンドルズは、『ビッグ・ウェンズデー』を上演した。
曰く「‥‥全球直球勝負です。夏に海をモチーフにして作品を創る時点でもろ直球勝負です。‥‥案外、青春はあたりまえのように続いてゆき、終らないものかもしれません。‥‥」と。

 いつものように、コンドルズ生命保険などのコマーシャル映像が上映された後、近藤良平がサーフボードに乗って舞台を横切るシーンから始まった。

 特におもしろかったのは、大波にさらわれて見知らぬ浜辺にうち寄せられたロボットと怠惰な救急隊員とハードボイルドのズメオが、必死に記憶の断片を寄せ集めてやっとそれぞれに名前を付ける。するとすぐにまたまた大波が襲ってきて記憶を失う。同じように記憶を失った人々が打ち寄せらてきて、新たに加わった人を含めて名前を付けズメオに記憶が蘇りそうになると、そこにまたまた大波が来て‥‥と繰り返す。このシーンをみていて、なにか自分の記憶のありさまがそのまま描かれているのではないか、と思うほど、今日の記憶というものの姿をまざまざと感じさせられた。複雑煩瑣な現代のもろもろに対しても、私たちの記憶の容量がオーバーしているわけでは決してない。記憶を蘇らせる力が日々衰えてきているのである。

 忘れたらキーボードをたたけばいい、逆にキーボードで確かめないと不安になる。人類はすべての記憶をマシーンに委ねようとしているのか、大波の襲来で失った記憶を呼び戻そうと必死にもがく人が、ほんとうに健康に思えた。
 ダンスシーンは、終幕近く、茜色の照明の中で大波とともに去り行く夏を想う気持を踊った、近藤良平のソロが素敵だった。
(9月17日、新宿シアターアプル)

●新国立劇場DANCE EXHIBITION 2004、岩淵多喜子振付の『Distance』

 新国立劇場のDANCE EXHIBITION はAプロを観た。オーストラリアに自身のコンテンポラリー・ダンス・カンパニーを持つ、リー・ウォーレンの『Divininig』から開幕した。

 スクリャービンの音楽を使った小品だが、まず、照明のプランからダンスを創り始めた、という。光と闇を意識した作品である。舞台の闇の中にさまざまの光のスポットをあて、動きと交錯させる演出。音楽と動きは常に一定の距離を保っていて、それが振付家の意図した効果をあげている。自伝的作品というが、自身が受けたダンスという芸術の啓示を描いた作品と思われる。

 内田香は『冷めないうちに召し上がれ』を上演した。インナーウエアで歯を磨き、爪を切り、ネイルの手入れなど日常的な姿を見せていた女性8名が、終始、ロングスカートとハイヒールで踊る。靴を脱いで戯れ、ティータイムになるとテーブルを使い、さらにディナーではドレスをあらため、赤いテーブルクロスを掛けた踊りとなる。フェミニンな感覚を種々意匠を凝らした形象で見せる舞台だった。
(9月15日、新国立劇場)

 岩淵多喜子のダンス・シアター・ルーデンスが『Distance』を上演した。岩淵はクラシック・バレエを習った後ラバンセンターに学び、新国立劇場や各国のフェスティバルなどで作品を発表している。私は多くの作品を観ているわけではないが、最近は少なくなったと思われる、テーマに対して非常に誠実に取り組む姿勢が気に入って注目している舞踊家の一人である。

『Distance』には、二点を結ぶ最善の方法は直線とは限らない、というサブタイトルというか但し書きが付けられている。ダンサーを舞台に立たせれば、それだけで種々の距離の問題が生じる。どの位置に立たせるか、振付家の目線。観客の目線、神の目線、もう一人ダンサーを舞台に上げれば、それらの問題はさらに複雑になっていくだろう。
 女性3人と男性2人のダンサーによる、解説に書かれている物理的距離から心理的距離、記憶、予則、現実、理想‥‥などのdistanceというテーマから派生する様々の問題を「等親大の視線からアプローチ」した作品であった。
 愛し合っているカップルが、「愛している」という言葉を掛けながらさまざまな身体的表現----最初のころは身体を叩き合う程度だったがだんだんとエスカレートしていき、最後はあらぬ部位にまで手が伸びる----が、なかなかおもしろかった。まさに男女の距離は、シンプルなようでさまざまな要素が混在していて、伸縮自在にコントロールすることは不可能というべきかも。

『Distance』

 ふだんボーッとしている私は、ダンスを観ていろいろとdistanceについて考えたから、その意味でまことに有意義であった。また、ニュートンの法則の次に距離をとり上げた点も観客に納得がいく選択である。
 ダンサーがそれぞれ共同振付者としてクレジットされていて、表現が練り上げられた過程が垣間見られるような気がして楽しい公演であった。
(9月4日、横浜赤レンガ倉庫1番館)

 

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