関口 紘一 text by Koichi Sekiguchi
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さしもの猛暑も山を越したかもしれない。強烈な陽射しの影から、幽かに秋の気
配が感じられるような気がする。9月に入ると、そろそろ2004-2005のシーズンも始まる。これからどんな舞台と出会うことができるのか、楽しみな日々がいよいよ始まる。
●ピナ・バウシュのジャパン・ピース『天地 TENCHI』と『バンドネオン』
今月は、やはり、ピナ・バウシュのジャパン・ピース『天地 TENCHI』および『バンドネオン』の日本公演から始めるべきか。
私は、ピナ・バウシュの特別に忠実な観客ではないから、あまり立派な意見は述べられない。ほかに錚々たるお歴々が、微に入り細に穿って論陣を張っておられるわけだし。忠実な観客でもピナ・バウシュ作品のコレクターでもないが、私は彼女の過去のいくつかの作品からは感銘を受けた。
今回の『天地 TENCHI』はいかがであろうか。
まず、舞台床から鯨の巨大な尾鰭がにょきと突き立っている。さらに奥には鯨の腹や鰭の一部が突起している。舞台のフロワーを海面に見立てて、地球上最大の生き物の力感あるオブジェ。極めて印象的な装置であるが、私はすぐに京都の竜安寺石庭を連想した。白い砂の面が雲海とみえ、ところどころに山頂が顔を出している構成の有名な石庭である。仏教思想に基づいて世界を表したとも言われ、未だに謎の解明が続けられている神秘的な石庭の美、そのデザインを思い浮かべたのである。
この装置と第一部の終盤から幕が下りるまで(2部構成60分、85分)延々と降り続ける雪(紙吹雪)は、この作品の大きな特徴となっている。
オープニングは、インドネシアの小柄なダンサーが鯨の周辺で踊り、水中のパフォーマンスの動きとなる。すると海面下に隠れている鯨の姿が幻視されたような気がした。海の民である日本人が、鯨の暮らす深海の中から誕生していく神話を見るような、日本の始原を想起させるピナ・バウシュならではの優れたイメージであった。
しかし残念ながら、その後、繰り広げられたパフォーマンスは、率直に言って過去の作品よりもかなり淡白であった。ひとつひとつのシーンが細分化されすぎて、私には中途半端な印象だった。
『カフェ・ミューラー』で描かれた絶対的な孤独。『春の祭典』で提出された人間の存在に肉迫する犠牲という観念。『カーネーション』では、ナチズムと正対していると思われるような暴力と、地球を救済するかのようなインデアン・ソングの見事なコントラスト……。そうしたひしひしと胸に迫るピナ自身がわれわれに訴えようとするものが、感じられなかったのである。
タンツテアターは変わろうとしているのだ、という意見も散見されたが、私は変わろうとしているのか、始まろうとしているのか、それは分からない。正直に言って、彼女が日本をとりあげてくれたことは誠に慶賀すべきことだが、この作品にはいささか失望した、と言わざるをえないのである。
この作品では、「ゆかしさ」を捉えたともいわれる。とすると、今までのピナ作品にはあまりみられなかったような、観想を捉えようとしたのだろうか。合理性に基づいて事柄を追求し解明するのではなく、さまざまな事象(天地)の中に共感できるものを求める。そういう趣旨が今回の作品の中に顕われたのであろうか。いずれにせよ、冒頭の素晴らしいイメージとその後の展開とに、ギャップがあったのは確かだと思われる。最後のダンス・シーンにしても、よくあるパターン、という以上の印象は持ち得なかった。(7月6日、彩の国さいたま芸術劇場)
一方『バンドネオン』は、タンゴの世界----伝説的アーティストの写真が掲げられ、タンゴ的濃密な情感が隅々まで時間をかけて染み渡った空間が舞台。まず執拗にマリアに関する質問が繰り返されるシーンから始まる。愛について、母のおおいなる愛(聖母マリヤ信仰)、子供時代の傷つき易い愛、ペットのネズミへの愛、映画『禁じられた遊び』のラストシーンのように「ミッシェル! ミッシェル!」と叫び続ける失われた愛、すべての人と「ブラボー!」を浴びせあう、これは形式的な愛とでもいえばいいのか、などなどさまざまな大きな意味での愛のエピソードが語られる。しかし男女の愛は、ダンゴのパフォーマンスで表される。腰だけを密着し、足や腕をオーバーアクションで踊ったり、男女共に膝をついて踊ったり、肩や足をすりすりし合って愛情を表したり、と様々な「タンゴ」が踊られる。タンゴに秘められた感情が、ピナ流に分解されて見事に舞台に現れた作品である。
(7月15日、新宿文化センター)
「天地」
「バンドネオン」
●モンテカルロ・バレエのマイヨー振付『ロミオとジュリエット』『La Belle』
ジャン=クリフトフ・マイヨーは、カンヌのロゼラ・ハイタワーの下で学んだ後、ジョン・ノイマイヤーのハンブルク・バレエ団のソリストとして活躍、1993年からモンテカルロ・バレエの芸術監督を務めている。最近では、モナコのダンス・フォーラムの総裁に就任し、02年には自身の『La Belle(美女)』がニジンスキー賞を受賞している。
ノイマイヤーのバレエ団で踊っていたからかどうか知らないが、非常にヴィジュアルのセンスに優れたイメージ豊かなステージを創る。
たとえば『La Belle』では、16歳の誕生パーティにオーロラ姫を巨大なシャボン玉の中に入れて登場させる、という大胆な演出を成功させている。衣裳も悪の世界と善の世界のそれぞれの住人であることを象徴的な表現で、巧みに表している。ここでは王子の母が人喰い鬼のカラボスで、オーロラ姫の善の世界を破滅に追い込もうと狙っている。シャルル・ぺローの原作童話の恐ろしい部分と、チャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』のメルヘン的世界の対立を描いている。
『La Belle』
チャイコフスキーのバレエ曲『眠れる森の美女』に、第3幕ではディヴェルテスマン部分の音楽を、同じチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」に変えている。(7月23日、オーチャ−ドホール)『ロミオとジュリエット』は、キャピュレットとモンタギューが血を流して争うヴェローナの街で、ロレンス神父が平和の祈りを捧げているシーンから始まる。ロレンス神父は霊的世界の指導者として、対立抗争を繰り返す現実世界に平和をもたらそうと、ロミオとジュリエットを結婚させようとする。ほかにも物語の様々の局面で、彼は登場して運命を味方につけようと努力する。しかし結局、運命の悪戯によって、仮死から目覚めたジュリエットはロミオの死体をみて絶望し、自ら死を選ぶ。
ロミオとジュリエットが出会う、キャピュレット家の舞踏会のシーンの演出は見事であった。ジュリエットとパリス、ロミオとロザライン、キャピュレット夫人とティボルトの3カップルが、それぞれの表情をみせながら踊る。さらに登場人物が目まぐるしく入れ代わり、敵の家にしのびこんだスリルと宴の盛り上がりが、適度に抽象化されて見応えがあった。
ティボルトのマキューシオ殺しは剣だが、ロミオのティボルト殺しは、マキューシオの血のりの付いた布による絞殺。この演出は、B級映画の殺人シーンようでかっこいいかもしれないが、バレエにはあまり馴染まないようだった。
『ロミオとジュリエット』
マイヨーの創る動きは、モダンダンスとバレエをミックスしたようなものが多く、ノイマイヤーの動きを彷佛とさせるものもある。動きにもう少し音楽性を感じさせてほしい、などと思った。
(7月119日、オーチャ−ドホール)
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