MALANDAIN: L’ENVOL D’ICARE
マランダン, 新作への意気込みを語る
10月9〜28日、オペラ座に多大な影響を与えた功労者セルジュ・リファールへのオマージュ・プログラムとしてリファール作品から『白の組曲』『ミラージュ』、そして気鋭の振付家でビアリッツ・バレエ団を率いるティエリー・マランダンがオペラ座で初めて自作『イカロスの飛翔』を世界初演する(ガルニエ宮)。これに先立ち9月21日、一般聴衆参加の会見に臨んだマランダンは新作への思いを熱く語った。
まずリファールの経歴をオペラ座の歴史に照らして紹介すると、1905年キエフに生まれ、ディアギレフの下バレエ・リュスの洗礼を受けたリファールは1929年、オペラ座のために振付けた『プロメテウスの創造物』を発表。1930年〜44年、オペラ座のプルミエ・ダンサー兼バレエマスターを務める。モンテカルロに数年滞在した後、47〜58年、再びオペラ座でバレエマスターおよびダンサー(56年まで)を兼任。86年、ローザンヌで死去。
マランダン曰く「リファールの功績で最も大きいのは、貴族のお楽しみとして位置づけられていたフランスのバレエ界に新風を吹き込んだこと。バレエを芸術としてとらえ、真剣なアプローチを関係者にも観客にも訴えたことです」。さらに、古き皮袋に新しき酒の精神を忘れることがなかった、という。そのひとつがバレエの基本ステップ「パ」だった。1番から5番までの古典的パに、両足を平行にそろえる6番、さらに6番から上下に足をずらした7番、の概念を取り入れたというのである。
会見にはオペラ座バレエ芸術監督ブリジット・ル・フェーブルと、バレエ・マスター補助パトリス・バールも同席。バールは「6番、7番はリファールの前から存在していた」と反論すると、「それをパとして位置づけたのはリファールが最初だった」とマランダン。「きちんと系統立てた秩序を重んじるオペラ座の伝統も、リファールの築いた礎から始まったと言えます。エトワールの称号もリファールが持ち込んだものでした」
ダンサーにエトワールの階級を与えることで、「ソリストの力を認め、一人ひとりのダンサーの個性を引き出したかったんだと思います」。新作についての具体的な説明はなかったが、マランダンは「私が創作する上で尊ぶのがリファールの精神」と強調する。それは決して奇をてらわず、あくまでもクラシックの形式をベースにした上での「自然体」「改革」を追及することなのだという。
ギリシャ神話に出てくるイカロスの物語から、何が学べるのか。そんなことを観客に問いかけ、さらにリファールの精神をバレエ創作の手法に組み込んだ作品に仕上げたい、と熱っぽく語っていた。
演奏はオペラ座管、指揮ヴェロ・パーン。初日9日のプレミア公演以外のチケット料金は、80〜6ユーロ。公演時間やチケット入手については、サイトwww.operadeparis.frを参照のこと。
L'ÉCOLE DE DANSE DE L'OPÉRA NATIONAL DE PARIS
パリ・オペラ座バレエ学校ボーイズクラス
30年来に渡ってオペラ座バレエ学校の改革にあたってきたクロード・ベッシー校長にかわり、昨年エリザベス・プラテル新校長が着任。新しい歴史を刻みはじめた学校で、ボーイズクラスを見学する機会に恵まれた。少人数制で同年齢ばかりの男子に必要な訓練のみを盛り込んだ授業。エスプリとイマジネーション溢れる音楽・・・。恵まれた環境と選ばれた子供たちのための質の高い授業が、未来のオペラ座を支えていた。
パリ・オペラ座から郊外電車RERのA線で約10分、ナンテール駅から徒歩2分のところにオペラ座バレエ学校があった。半円柱形の白い建物で、一風、学園都市を思わせる。昼休み時間中で、中庭のピンポン台で数人の男の子たちがゲームを楽しんでいたが、見学にきた私たちの姿をみるなり遊びをやめてラケットをテーブルの上に置き、
「ボンジュール・マダム」
真っ直ぐにこちらを向き、全員が右手を軽く胸の前に置いて挨拶してくれた。
行く先々でも同じ。和気あいあいと談笑しながら歩いてきた女の子一団とすれ違ったときも、立ち止まって軽く片膝を折るレベランスで挨拶をする。
「ここの生徒たちは、そう躾けられているんです」
関係者は、そう説明してくれた。
バレエ学校は全部で6学年。毎年昇級試験があり、成績が悪ければ留年する選択肢もあるが、退学を余儀なくされる場合もある。中には、急激に背が伸びて身体のコーディネーションが悪くなった男子が辞めさせられたケースもあった。最終学年を経てオペラ座に入団できるのは、その年の空き状況で毎年人数が異なる。昨年は最終学年の男子が5人、女子が11人だったが、入団枠は男子1人と女子2人の激戦だったという。翌年に望みをつないで留年することも出来るが、学校に在籍できるのは18歳までだ。
「でも、オペラ座に入団できなくても、ここで6年間学んだ生徒たちは世界中どこのダンスカンパニーでも大歓迎されますよ」
と、ある教師から聞かされた。
一般校では午前8時半ごろから午後4時半ごろまで普通教科の授業がびっしりだが、オペラ座学校の場合は朝8時にスタート。午前中は、同じ敷地内の教室に出張してくる国家教員たちから普通教科を教わる。そして午後は基本のバレエクラスに、コンテンポラリー、キャラクターダンスやアダージオ(パ・ド・ドゥ)、舞踊史や歌唱クラスなどを組み合わせた2科目で構成されている。
生徒たちが食べ終わった食堂で昼食をいただいた。ビュッフェスタイルで、前菜にはミックスサラダやキノコのサラダなど、メインにはローストチキンにライスや人参グラッセ、インゲンのソテーなどから自由に選んでサービスの人に盛り付けてもらう。そのほか食後のチーズ、デザートのチョコレートムースやプリン、果物と豪華だ。教授陣やピアニストたちのためか、コーヒーもセルフサービスで入れられる。味も十分、ビストロのレベルに達していた。
午後1時半、最低学年のボーイズクラスを見学させてもらった。80平米ほどあるスタジオに生徒はたったの10人。8〜11歳で今年1月から6月までの研修期間を経て正式に学生となった7人と、11〜13歳で1年間の研修生として9月に入ってきた3人だ。
まず前半の20分ほどは、フロアでのエクササイズにあてられた。腹筋、背筋、柔軟性を鍛えるメニューが主体だ。続くバーではドゥミ・プリエ、タンデュ、デガジェ、クッペ、ルルベ、フラッペを組み合わせた内容で30分ほど。柔軟性よりも、ピルエットや跳躍にそなえて足首と足先を鍛えることに重点が置かれている。むずかしいコンビネーションは教えない。それよりも身体の正しい使い方をマスターさせることを優先したレッスン内容だ。
それでも先生の説明を受けてから生徒たちがエクササイズを始めた直後、こん棒を持った先生がドンと床を叩いて中断させた。
「前の2人、何を聞いていたのか?」
と叱責の声。コンビネーションの順番を間違えたらしい。すると、直ちに注意を受けた生徒2人が床に手をつき、黙々と腕立て伏せを始めた。1,2,3・・・10回。これが、間違えたときの「罰」だった。
ふつうは先生が「罰」を命じるのは稀で、生徒たちの自己申告制だ。だからバーレッスンの途中、ひとつのエクササイズが終わるごとに数人がバタバタと床に手をつき、腕立て伏せを始める。30分ほどのバーレッスンの間に、一人あたり30〜50回は腕立て伏せをした計算になるほどだった。
この「罰」について、先生はこういう。
「レッスンには、ある緊張感が必要。毎日、ただの繰り返しと思い始めたら向上しません。単調な動作の習得であっても、常に自分自身の意識を喚起する必要があるんです」
バーでのエクササイズが終わると2分間の休憩を挟んでセンターでのレッスンが始まった。全体では20分ほど。この学年では、まだピルエットや跳躍をほとんど入れない。バーで練習したタンデュやデガジェ、プリエを組み入れ、パドブレ、ストゥニューなどに発展させてゆく。あくまでも足首と足先を鍛え、バランス感覚を身につけさせることで後々の動きにつなげてゆこうという狙いだ。
レッスン全体を通してみると、決してバラエティーに富んでいるとはいえない。むしろ単調で退屈しないかと危惧されるほどだが、それを支えているのがピアニストのエスプリとイマジネーションだ。クラシック音楽やジャズ、ポップ調のものも取り混ぜて授業に活気を与えるのと同時に、アップビート、ダウンビート、シンコペーションなどに対するリズム感も磨く。どの曲にも身が入った演奏で、見学中も踊りだしたくなるほど引き込まれた。
「生徒たちには、同じレッスンを受けていても昨日と今日、今日と明日が違うものと感じてほしい。気持ちの上でいかにモーチベーションを高く持ち続けてもらえるか、が僕らの使命だと思うんです」
ボーイズクラスのピアニストは、そう話していた。
関係者の話では、オペラ座バレエ学校にピアニストとして就職するのは難関中の難関だとか。日本人が2人、ロシア人が1人、アメリカ人が一人・・・。ピアニストの顔ぶれは国際色豊かだ。
ベッシー校長時代の厳格な教育方針とは違って、プラテル校長は自由な雰囲気を尊んでいるという。ダンスを愛する子供たちの気持ちを最大限にサポートすること、それが校風に満ち満ちている。刷新された学校から巣立つダンサーたちが、オペラ座に新風を持ち込むのは間違いない。そう期待させられた。 |